関連寺社
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鷲見神社……鷲見城西の丸跡に存在し、初代頼保が祀(まつ)られている。山県市高富にも頼保を祀った同名の神社がある。 八幡神社 (郡上市八幡町) ……鷲狩り伝説時に頼保が、長良川で「八幡」の文字が浮かび上がる鷲の羽根を発見し、村人にそれを神体として祀るよう伝えたのが由緒と伝わる。 広厳寺 (山県市)……鷲見氏の菩提寺。鷲見直保・保光開基。毎年秋に「鷲見祭り」を行い先祖の供養をしている。 大智寺 (岐阜市)……鷲見保重開基。
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関連寺社
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神田明神 - 東京都千代田区にある神社。三之宮に除災厄除の神様「平将門命(まさかど様)」として祀る。明治7年(1874年)に一時、摂社・将門神社に遷座されたが、昭和59年(1984年 )に再び本殿に奉祀された。 京都神田明神 - 京都市下京区にある祠。空也が将門の首級を祀り祟りを鎮め厚く供養し建立した小祠と伝わる。 帝立山妙善寺 - 千葉県東金市にある寺院。東金市御門(みかど)にある。地名は新皇を名乗った将門に因む。将門が慈母桔梗の前の菩提を弔うために天慶元年(938年)4月、真言宗の一刹を建立し京の都より貞観法師を迎え開基したと伝えられる。戦国期に上総七里法華によって改宗、現在は顕本法華宗寺院である。 香取神社 - 東京都江東区にある神社。天慶年間(938年~947年)、藤原秀郷が当社で将門討伐の戦勝祈願をし、成就したことから弓矢を奉納し、「勝矢」と命名した由緒から今日ではスポーツの神として崇敬を集める。 國王神社 - 将門終焉の地とされる茨城県坂東市にある神社。将門の三女・如蔵尼が、父の最期の地に庵を建てたのが国王神社の創建とされ、父の三十三回忌に当たって刻んだ「寄木造 平将門木像」を神体とする。 将門塚-東京都千代田区東京メトロ大手町駅から徒歩3分のところにある「将門塚」。ここは平安時代中期の豪族、平将門の首を供養するために建てられた石碑です。偶然にも皇居大手門方面にあり滝口武者であった若き日の彼の様に、今でも皇居の守りを担っている。 神田山延命院 - 茨城県坂東市にある真言宗智山派の寺院。将門の遺体を葬った胴塚がある。その胴塚を抱くように大きなかやの木が立っており、西側には、1975年(昭和50年)に東京都大手町の将門首塚から移された「南無阿弥陀仏」の石塔婆が建てられている。 駒形大神社 -千葉県市川市にある神社。将門がこの地に出城を設けたという伝説があり、将門も祭神として祀られる。 相馬神社 - 福島県相馬市にある神社。境内の国王社に素戔嗚尊と相馬氏の祖と伝えられる平将門をあわせて祀る。 長禅寺 - 茨城県取手市にある寺院。承平元年(931年) 将門が祈願寺として創建したと伝わる。 築土神社 - 東京都千代田区にある神社。「相殿神」として将門を祀る。将門は東国においては英雄として祀り上げられるも、明治になると皇国史観の影響もあり、将門を「逆賊」のように評する風潮も見受けられた。それまで築土神社では将門を唯一の祭神としていたが、明治7年(1874年)社格を意識して便宜上、天皇と関わりの深い神である天津彦火邇々杵尊を霧島神宮より勧請してこれを「主神」とし、将門を「相殿神」として祀るようになった。 七ツ石神社 - 山梨県丹波山村と東京都奥多摩町の境界の山、七ツ石山にある神社。山名の由来である頂上の露岩には、将門の影武者七人衆のわら人形を作り並べて敵がそれを射貫いた瞬間、岩に変化したという伝説がある。 御首神社 - 岐阜県大垣市にある神社。南宮神社で将門の首が関東に戻ることにより再び乱の起こることを恐れ祈願したところ、神社に座す隼人神が矢をつがへ東に飛びゆく将門の首を射落とした。この首が落ちた荒尾の地に将門を神として崇め祀ることによって再びその首が関東に戻らぬよう、その怒りを鎮め霊を慰めるために創建されたのが御首神社であると伝わる。 八幡の藪知らず - 千葉県市川市にある禁足地。一説に将門が朝廷軍と戦ったとき、将門軍の鬼門に当たった場所であるとされる。 奈良の大仏 - 千葉県市原市 にある釈迦如来 像。創建の目的は不明だが、将門が関わったという伝承がある 。 鎧神社 - 東京都新宿区にある神社。一説に、藤原秀郷が重病を得た時、将門の鎧を円照寺内に埋め、一祠を建てて将門の霊を弔ったところ病が癒えたという。 兜神社 - 東京都中央区の神社。境内には、「兜岩」とよばれる岩があり、なぜ兜岩と呼ばれるのかは諸説あるが、その一説が、940年(天慶3年)、将門を討ち取った秀郷が、岩がある当地で将門の兜を地中に埋めて供養したというもの。この岩が「日本橋兜町」の地名の由来となっている。 将門神社と首洗い井戸。千葉県我孫子市日秀に築かれた賀沼を眼下の望む高台南端に鎮座する神社。近くに「首洗い井戸(将門の井戸)」がある。 将門神社。東京都西多摩郡奥多摩町棚沢178にある神社で、かつて日本武尊の祭った多摩八座の一といわれる穴沢天神があった地に、鎮守府将軍藤原利仁が陣中衛護の神として八干戈命を祭って多名沢神社を起こし、その後に将門の長男良門が亡き父の像を刻んで祀って以来、社号を平親王社と呼ぶようになったと伝わる。多摩川流域を領した三田弾正忠平次秀は将門宮を再修して地域の総鎮守とし、江戸期には棚澤村東部地区の鎮守であった。明治41年古里村棚澤の熊野神社に合祀されたものの、昭和50年に地域住民が神社を再建した。 日秀観音-千葉県我孫子市。平将門の守り本尊と伝えられる観世音菩薩。 首曲(くびまがり)地蔵。我孫子市日秀にあり、将門調伏を祈願した成田不動尊を嫌い、成田に顔を背(そむ)けた姿といわれる。
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東海寺 - 東京都品川区北品川三丁目にある臨済宗大徳寺派の寺院。青山氏の菩提寺であり、忠誠の墓碑は独立して建っている。 小御門神社 - 千葉県成田市名古屋にある神社。後醍醐天皇の側近の花山院師賢を祀る。藤原北家花山院流を称する青山氏にとって師賢は忠誠の遠祖にあたり、小御門神社が創建された、明治15年(1882年)4月には師賢の芳書とされる源氏物語若紫の抄本を古筆鑑定家の古筆了佐による鑑定書付きで奉納している。また、「小御門神社 創建同士会連盟」の一員として奉納された天水桶には忠誠の名前が記されている。
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金王八幡宮 - 東京都渋谷区にある神社。将軍相続を危ぶまれた徳川家光のため、忠俊と家光の乳母・春日局が熱心に祈願した。後に二人の寄進によって社殿が造営され、現在は渋谷区指定有形文化財となっている。 青山神社 - 兵庫県丹波篠山市にある神社。篠山旧藩士民で青山家の旧恩を追慕景仰する人々によって、明治13年(1880年)に忠俊を祭神として篠山城内に建立した。なお、旧藩主の遠祖であるが忠俊は篠山とは縁故がなかった。そのため、昭和5年(1930年)に篠山藩主であった青山忠裕も合祀された。
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天神社 現・榴岡天満宮で、社伝によると、東照宮が建立されるより前の天文20年(1551年)に小俵玉手崎(現・東照宮境内地)に遷座し、慶安3年(1650年)東照宮建立に際し、東照宮境内地東側に遷座。寛文7年(1667年)7月25日に3代藩主・伊達綱宗により、社殿を造営し、現・鎮座地の榴ヶ岡に遷座した。天正19年(1591年) 、葛西大崎一揆の鎮圧の視察の帰途、徳川家康が天神社の境内で休息したことが、この地に東照宮を建てる由縁になったと伝わる。 仙岳院 仙岳院は、天台宗の寺院である。仙台東照宮の別当寺として創建され、江戸時代を通じて一体の関係にあった。仙台藩の筆頭寺であり、仙台藩の保護を受けていた平泉中尊寺の総別当を兼ねていた。明治時代の神仏分離令で東照宮から分けられた。創建時から今に伝わる本尊は、釈迦三尊(釈迦如来、文殊菩薩、普賢菩薩)で、日光菩薩、月光菩薩、十二神将とともに京仏師左京幸和の作である。 延寿院 仙岳院の傍院として万治3年(1660年) に阿弥陀如来を本尊として建立された。文政元年(1818年) に火災で焼失した。文久元年(1861年)に再建され、このとき浄円房大権現をあわせ祀った。
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