明治時代の神仏分離
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明治元年、政府は文明開化の指針の一つとして、「王政復古」「祭政一致」を文明国家として理解し直していた。これは、仏教国教化(宗教統治)を国策としていた徳川幕府時代と比べ、神道国教化を明治初年に目指したことは、国民負担軽減策として文明開化的であった。この軽減策は、それまでの幕府の仏教国教化政策の方針転換であるため、神仏分離令を発した。 仏教国教化の方針転換する起点としては、藩学による国民の学力向上だけでなく、国学の発展や神道の再評価、農法の発達もあった。これは相対的な結果として、砲艦外交後の幕府の外交問題を経ても、早期に政情回復した理由であるとも言われ、同時期に神社と寺院を判然し、それぞれを自立させたことも近代化に繋がったとされる。僧侶は、僧侶特権の弊害から職業の自由を獲得したが、一方では日本の神に仏具を供えることや、「御神体」を仏像とすることも、当時の近代化事情から是正ともなった。そして、神仏の分離のための七か条で、段階を経るように実施する内容としては、 このたび改めて仏号を付けた寺院は仏号を書いた掛け札をすぐに用意すること 神社の白木の鳥居はそのままでよいが、塗ってあるものは白木にしかえること、その場合の鳥居の形は下の貫手の両端を出さぬようにすること 神社にある仏像は、村役人立ち会いの上故障のないよう寺院へ渡すこと 寺院にある神体も同様にして神社へ渡すこと これらが終われば、寺院または社人より受取書を提出すること、 もし神殿造りの場合は堂塔に造りなおすこと、 神社の狗犬はそのままでよいが、唐獅子はすぐに取り除くこと。 これら神仏判然令の内容は、ジェノサイドを指向させるような一方的な「宗教排斥」ではなく、むしろ全国各地で廃仏毀釈という国民の宗教負担軽減運動のきっかけともいえ、各地の寺院や仏具への乖離・破棄へ繋がった。また地方の神官や国学者は、旧来の宗教政策とは学問上距離を置いていたこともあり、寺院に反感を持っていた民衆との親和性が増したことも要因と言える。 国民の宗教負担軽減の準備として、神仏分離方針の政府は、明治5年3月14日の神祇省廃止・教部省設置の段階での、祭教政一致の頓挫が着目される。これは特に平田派の国学者が主張する、古代にあった政体の理想が当時の実情には合わなかったことが挙げられるが、実際には神道の伝統や性質上において宗教化・国教化は正確には困難なこと、西洋列強が行う布教活動の盛況さに対する国内の危機意識により、僧侶との協力がなくては日本特有の風土を守れないとする実情があった。そこで、浄土真宗の島地黙雷からの具申をきっかけとして、神祇省は教部省に再編成、教育機関として大教院を設置、教導職には僧侶なども任命され、神仏共同布教体制ができあがってゆく。これにより、西洋列強の推進するキリスト教の日本人への布教活動への対抗となるが、列強により強く反発もされ、信教の自由の保証を逆に求められる事態となる。結果、明治6年(1873年)にはキリスト教に対する禁教令が廃止され、明治8年(1875年)には大教院を閉鎖、明治10年(1877年)には教部省も廃止し、内務省社寺局に縮小され、日本独自が目指した自立的国教政策は放棄された。代わって神道は宗教ではないという見解が後に採用されてゆく。 いわゆる神仏分離という政策は、文明開化当時の国民の精神・生活提案の一環として行われたものでもある。これは、修験道・陰陽道という旧来の非合理的習俗、江戸以前の習俗の開明的見直しでもあることから、江戸時代の利権であった葬式仏教のみならず、修験者・陰陽師・世襲神職等、特権的宗教者が打撃を受けた。
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