明治時代の東俣
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/15 14:35 UTC 版)
「東俣町 (鹿児島市)」の記事における「明治時代の東俣」の解説
明治5年に大区小区制が公布され、これに伴い郡山郷の区域が第21大区となり東俣村は第2小区となった。1878年(明治11年)には郡区町村編制法が施行され日置郡の管轄下となり、東俣にも戸長役場が設置され、1882年(明治15年)に川田村と厚地村の戸長役場を東俣村の戸長役場に統合し、1884年(明治17年)にはさらに統合され、東俣村の戸長役場は郡山村の戸長役場(郡山村、柚須木村、西俣村)に統合された。 1887年(明治20年)には東俣に東俣村、川田村、厚地村を管轄区域とする市来警察署伊集院分署の東俣巡査駐在所が設置された。その後変遷を経て2015年(平成27年)に郡山駐在所と小山田駐在所と統合し郡山交番が郡山町に設置されるまで東俣に駐在所が設置されていた。 1889年(明治22年)には町村制が施行されたのに伴い、それまで郡山郷を構成していた厚地村、東俣村、川田村、油須木村、郡山村、西俣村の6村を合併し郡山村が自治体として発足した。これに伴いそれまでの東俣村は郡山村の大字「東俣」となった。
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