明治時代より前
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「日本の高等学校設立年表」の記事における「明治時代より前」の解説
1556年(弘治2年)身延山久遠寺14世法主日鏡が引退後、学僧に向けて善学院を開く。1604年(慶長9年)、日遠により「西谷檀林」に改まり、1874年(明治7年)に「身延檀林」となる(現:身延山高等学校)。 1592年(文禄元年)江戸神田台に曹洞宗吉祥寺の学寮(後に旃檀林と改称、駒澤大学の母体)を創設。1902年(明治35年)曹洞宗第一中学林、1924年(大正13年)世田谷中学と改称(現:世田谷学園中学校・高等学校)。 1618年(元和4年)7月上杉景勝家老直江兼続が禅林寺(現:法泉寺と文殊堂)に米沢藩の学問所禅林文庫を創設。上杉綱憲がこれを藩校とし、後に上杉鷹山が興譲館と命名(現:山形県立米沢興譲館高等学校)。 1664年(寛文4年)7月会津藩が肥前出身の岡田如黙を校長として稽古堂を開校。1799年(寛政11年)4月7日、5代藩主松平容頌の時に藩校日新館となる。1882年(明治15年)私立日新館、1890年(明治23年)私立会津中学校、県へ移管され福島県立会津中学校と改称(現:福島県立会津高等学校)。 1668年(寛文8年)岡山藩藩主池田光政が木谷村延原(現:備前市閑谷)など藩内123箇所に郡中手習所を設置。1675年(延宝3年)に手習所を1箇所に統合して閑谷学校となり、一時期中絶するものの1884年(明治17年)に閑谷黌として再開して1921年(大正10年)に岡山県立閑谷中学校(現:岡山県立和気閑谷高等学校の前身)。なお、これとは別に1666年(寛文6年)には藩校として仮学館が設置されている(現:岡山県立岡山朝日高等学校)。 1682年(天和2年)了翁道覚、上野不忍池畔の勧学寮(1672年落慶)にて学問を講じる(勧学講院)。勧学講院は1873年(明治6年)に天台宗東部総黌となり、天台宗東部大中総黌を経て1904年(明治37年)に天台宗中学(現:駒込中学校・高等学校)と天台宗大学校(現:大正大学の前身校)に分立。 1670年(寛文10年)大村藩が藩校として集義館を設立。後に五教館と改称(現:長崎県立大村高等学校)。 1718年(享保3年)長州藩の6代藩主・毛利吉元が、藩校として明倫館を設立(現:山口県立萩高等学校)。 1725年(享保10年)広島藩が藩校としてを講学所を設立。後に講学館、学問所、修道館と改称(現:修道中学校・修道高等学校)。 1752年(宝暦2年)三河吉田藩が藩校として時習館を設立。1895年(明治28年)5月、豊橋町立豊橋尋常中学時習館と改称(現:愛知県立時習館高等学校)。 1757年(宝暦7年)鳥取藩学館(尚徳館)が開館。廃藩置県後の1873年(明治7年)10月28日に第四大学区十五番変則中学校となり、鳥取県中学校・鳥取県立鳥取中学校などを経て1922年(大正11年)4月1日に鳥取県立鳥取第一中学校(現:鳥取県立鳥取西高等学校)。 1758年(宝暦8年)小倉藩が藩校として思永斎を設立(現:福岡県立育徳館中学校・高等学校)。 1781年(天明元年)佐賀藩が藩校として弘道館を設立。学制改革で一旦廃校。1876年(明治9年)、同地に佐賀変則中学校を開校(現:佐賀県立佐賀西高等学校)。 1783年(天明3年)尾張藩が藩校として明倫堂を設立。1899年(明治32年)、私立明倫中学校が設立認可される。1919年(大正8年)、県へ移管され愛知県立明倫中学校と改称。1948年(昭和23年)10月、愛知県立第一女子高等学校(旧:愛知県立高等女学校)と統合(現:愛知県立明和高等学校)。 2月6日 - 久留米藩が藩校として学問所を設立。後に明善堂と改称(現:福岡県立明善高等学校)。 1784年(天明4年)2月6日 - 福岡藩が藩校として修猷館を設立。1885年(明治18年)9月10日、県令に基づいて福岡県立修猷館を開館(現:福岡県立修猷館高等学校)。 1792年(寛政4年)3月20日 - 佐倉藩が藩校として佐倉藩学問所を設立(現:千葉県立佐倉高等学校)。 長府藩が藩校として敬業館を設立。1875年(明治8年)に豊浦学舎となり、1880年(明治13年)に山口県に移管(現:山口県立豊浦高等学校)。 1796年(寛政8年)幕府直轄領化された甲斐国に常在した甲府勤番によって甲府勤番子弟の教育を目的に甲府学問所(のちの徽典館)を設置(現:山梨県立甲府第一高等学校)。 1798年(寛政10年)尚温王が国学を創立(現:沖縄県立首里高等学校)。 彦根藩が藩校稽古館を創立。弘道館、文武館、学館、学校と変遷(現:滋賀県立彦根東高等学校)。 1805年(文化2年)松山藩が藩校として興徳館を設立。1828年(文政11年)2月3日明教館と改称。1878年(明治11年)6月15日、愛媛県松山中学校と改称(現:愛媛県立松山東高等学校)。 1816年(文化12年)儒学者・上田鳳陽が私塾として山口講堂を設立。後に山口明倫館と改称して、長州藩の藩校となる(現:山口県立山口高等学校)。 1822年(文政5年)小田原藩が藩校として集成館を設立。一旦廃校の後、1900年(明治33年)、新たに神奈川県第二中学校を設立(現:神奈川県立小田原高等学校)。 1841年(天保12年)水戸藩が藩校として弘道館を設立。後身である水戸学院を引き継いで、1927年(昭和2年)に飯村丈三郎が財団法人茨城中学校を設立(現:茨城中学校・高等学校)。 1847年(弘化4年)5月10日 - 吉川藩が藩校として養老館を設立。1880年(明治13年)8月15日、養老館に岩国中学を設立。1949年(昭和24年)4月21日、山口県立岩国第一女子高等学校と統合して山口県立岩国西高等学校となる(現:山口県立岩国高等学校)。 1852年(嘉永5年)実業家・浜口梧陵らが、私塾として耐久社を設立(現:和歌山県立耐久高等学校)。 1855年(安政2年)福井藩が藩校として明道館を設立(後に明新館と改称)。1873年(明治6年)、福井私立福井中学と改称(現:福井県立藤島高等学校)。 1858年(安政5年)福澤諭吉が江戸築地鉄砲洲に蘭学塾を開き、1868年(慶応4年)に芝新銭痤への移転を機に慶應義塾と命名。1890年(明治23年)に大学部と普通部に改組され、1905年(明治38年)に商工学校を設置(現:中等部・高等学校)。 長崎奉行所が英語学習者を一般に募集し、長崎英語伝習所が発足。その後官立となって長崎英語学校となるも、財政難から1878年(明治11年)に長崎県立長崎中学校へ改組。1882年(明治15年)に長崎県立長崎外国語学校に改称し、県立長崎商業学校を経て1901年(明治34年)に長崎市へ移管(現:長崎市立長崎商業高等学校)。 1864年(元治元年)孝明天皇の勅許により、儒官・中沼了三が私塾として文武館を設立(現:奈良県立十津川高等学校)。
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