明治時代以降・華族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 06:49 UTC 版)
明治時代になると、上冷泉家の冷泉為紀は伯爵に、下冷泉家の冷泉為柔は子爵と華族に列せられた。下冷泉家も、家系的には上冷泉家には全く劣るものではなかったが、戦国時代に別所氏によって当主が殺され所領を失い、庇護者で親しい間柄にあった豊臣氏も没落し徳川氏が台頭したことが後々の官位にも影響し、爵位の差に繋がった。 明治維新によって多くの公家は明治天皇に従い東京に移住したが、上冷泉家はその後も京都の屋敷に住み続けた。現在の京都御苑にあった公家町の公家の屋敷は明治初期の東京移住命令により全て取り壊されたが、今出川以北にあった上冷泉家の屋敷は取り壊しを免れたといわれている。しかし、下冷泉家の屋敷は現在の京都迎賓館付近にあたる京都御苑内にあったため、取り壊され公園となった。 御文庫を擁する上冷泉家が京都に残った事で、結果として膨大な至宝は関東大震災と東京大空襲による被害を免れた。
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