明治時代以降の論議
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「つぼのいしぶみ」の記事における「明治時代以降の論議」の解説
1870年(明治3年)松浦武四郎は『壺の碑考』で多賀城説を唱えた伊達藩主と佐久間洞巌が「文を舞わした」と批判した。 1870年-1871年(明治3-4年)に江刺恒久が南部藩士の命により編集した『奥々風土記』では、千曳神社の解説として坪村の壺子に関する口碑を述べ、その石を埋めて明神を祀ったものとし、その石を昔坪村にあった石碑だから世俗坪の石碑と言ったとし、その坪村は『日本後紀』の条に見える都母村であるとした。 1872年に編纂された『新撰陸奥国誌』では壺の碑と千曳神社の石は別個のものであるとしている。壺の碑は洪水のために流出したが、坪川の杉渕に姿を見せていると記されている。 1892年に田中義成は多賀城碑は佐久間洞巌の偽作であるという説を提示した。 1911年に大槻文彦は佐久間が伊達藩の家臣として活躍する以前に既に多賀城碑は存在していることを資料によって明らかにし、多賀城碑真碑説を唱えた。しかし1915年(大正4年)に大槻文彦は、佐久間洞巌 纂述の『増補多賀城碑考』の序で、諸説が多賀城碑を壺碑としているが、古歌によると壺碑は陸奥の極北にあることを示しているということから、この両碑はまったく別物で、『袖中抄』にいう「つぼ」は『日本後記』にいう都母村で、青森県上北郡、七戸の北にある坪村、坪川という地名がそれに当たるとし、南部壺碑説が妥当であるとした。坂上田村麻呂が日本中央と記したことや、千引の石などということは信じられないが、何かの碑に関する伝説はあったのだとした。 1925年(大正14年)に喜田貞吉は文室綿麻呂は都母に到達していること、「つぼのいしぶみ」は地名として取り扱われていることから、坪村地方には古碑伝説は本来無かったとし、多賀城碑説も問題にならないとして、つぼのいしぶみは本来どこにもなく、単なる歌枕に過ぎないとした。 石文集落からの石について、青森県の地方史家の葛西覧造は彫られている文字が新しいことと、偽作の事実を知っている者があることから、近代の偽作であるとした。 1951年(昭和26年)中道等は『甲地村誌』で、表面に彫られている文字も相当古いが、実はその下にさらに古い文字が読み取れ、史的価値に富むものだとしている。 1956年(昭和31年)に吉田良一は「日本史上の青森県」で「平安時代のものでないにしても、近頃の偽作であると簡単に片付けることはできない。『日本中央』という文字の意味については色々解釈もあるが、とにかくその碑があったことは信じてよいと思うし、またそれは上北郡にあったもので、文屋綿麻呂と関係があると見てよかろう。」とした。 金沢規雄の「『おくのほそ道』研究」「歌枕の伝承とその定着過程」、平川南の「多賀城碑研究史」などの論では、いずれも壺碑は古代末から中世始めにかけて生まれた歌枕の一つであって、みちのくにゆかりを持つものではあるけれども、その正体も所在も不明であること、十七世紀に多賀城碑と同一視され、その後南部所在説が現れたが、歌枕のつぼのいしぶみは、多賀城碑とも南部の壺碑とも無関係の幻の碑であることを論じた。 2012年(平成24年)に青森大学学長であった盛田稔は、現在保存・展示されている「日本中央の碑」は後世の偽作であるとしている。盛田は、この石が鉄道を敷く時に無蓋貨車に乗せてきて、下の沢に落とした物であることを、地元で故人の地方史家から他言無用の約束で聞いたとしている。しかし同時に、つぼのいしぶみ伝説について謎は全くないとし、文室綿麻呂が811年に蝦夷と戦ったとき、軍を引き上げるに際し対面を保つために、今後叛意を示さない限りここはお前たちの土地であるとの印に、蝦夷の中央の意味の「日本中央」と書いて与えたものだとしている。
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