南部壺碑説とは? わかりやすく解説

南部壺碑説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/19 00:48 UTC 版)

つぼのいしぶみ」の記事における「南部壺碑説」の解説

青森県東北町の坪(つぼ)という集落近くに、千曳神社(ちびきじんじゃ)があり、この神社伝説1000 人の人間石碑引っぱり神社地下埋めたとするものがあった。 明治天皇東北地方巡幸する1876年明治9年)に、この神社地下発掘するように命令政府から下った神社周囲はすっかり地面掘られてしまったが、石を発掘することはできなかった。 1949年昭和24年6月東北町千曳神社近くにある千曳集落川村種吉は、千曳集落石文いしぶみ集落の間の谷底落ちていた巨石を、伝説確かめてみようと大人数ひっくり返してみると、石の地面埋まっていたところの面には「日本中央」という文面彫られていたという。 この地区には田村麻呂到着していないし、実際に都母(つも)に行ったとされる武将文屋綿麻呂である。しかし、多くの古い事柄有名な英雄である坂上田村麻呂関係づける傾向がこの地方に多い。もしも実際に文屋綿麻呂書いたとすれば811年弘仁2年)頃の出来事になる。 発見後新聞社学者調査を行うが、本物の「つぼのいしぶみ」であるとする鑑定がはっきりと出されていないのが現状である。これは、『袖中抄』の記述とは一致するが、常識とは異なる「日本中央」という文面や、多賀城碑存在田村麻呂現地到達していないという問題一見して達筆であるとは言えない字の形、発見時に学者らの調査以前拓本をとるため表面必要以上に綺麗にしてしまった問題など鑑定影響及ぼしている。 現在、日本中央の碑保存館の中にこの石碑保存されている。

※この「南部壺碑説」の解説は、「つぼのいしぶみ」の解説の一部です。
「南部壺碑説」を含む「つぼのいしぶみ」の記事については、「つぼのいしぶみ」の概要を参照ください。

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