南部境界論争とは? わかりやすく解説

南部境界論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:48 UTC 版)

エドマンド・アンドロス」の記事における「南部境界論争」の解説

ヨーク公領土最南部は概略現在のデラウェア州北部まで広がっており、メリーランド植民地範囲そこまで広げようとしていた領主ボルチモア男爵チャールズ・カルバートも望んでいた。同時にカルバートは北のイロコイ族との辺境での戦争を終わらせようとしており、メリーランド領内であるポトマック川まで仲介役のサスケハノック族が移動してくるよう説得していた。さらにデラウェア湾支配していたレナペ族バージニアメリーランド開拓者が彼らの土地横領することに不満であり、オランダニューヨークを再占領した1673年には、これら人々の間に戦争起ころうとしていた。 アンドロスニューヨークに来た時、その状況落ち着かせるために動いたレナペ族酋長達と仲良くなり、イングランド人他の部族との間の仲介者になるよう説得したメリーランドベイコンの反乱起きたとき、和平成立する寸前だった。それがポトマック川沿いのサスケハノック族の砦への攻撃となった生き残ったサスケハノック族はある夜に砦から抜け出し、ある者は東のデラウェア湾方向向かった1676年6月アンドロスは、彼らが自分管轄権内に移動してくる代わりにバージニアメリーランド開拓者中にいる敵から保護する提案した。その提案サスケハノック族の中に入って来ていたモホーク族にも及ぶこととした。この提案受け入れられたが、メリーランド当局はその同盟インディアンアンドロス提案する和平受け入れるよう説得できず、彼らをまとめてデラウェアまで歩いて行かせた。それはその地域対すメリーランド権利主張強化させる目的も果たすものだったアンドロスサスケハノック族にメリーランド影響が及ばなくなるニューヨーク戻って来るよう促すことで反応しメリーランドにはサスケハノック族に対すアンドロス主権認めるか、平和的に連れ戻すかという強い言葉による脅し送った仲介者としての機能提案しサスケハノック族がメリーランド開拓地離れた今はイロコイ族から直接攻撃される可能性があることを指摘した1677年2月3月レナペ族シャカマクソン(現在のフィラデルフィアがある場所)で開催され会合で、あらゆる関係者集まったが、最終合意までは至らずアンドロスサスケハノック族にレナペ族と共に留まり4月にはニューヨーク他の場所散らばるよう命じたメリーランドはヘンリ・コージーをニューヨーク派遣してアンドロス交渉し最終的にイロコイ族との和平となったが、同時にニューヨーク植民地デラウェア湾領有主張していた土地区画割りを行うために測量士派遣してもいた。コージーアンドロス事実上賄賂となる100ポンドを贈るよう指示されており、その土地引き換えインディアンとの和平仲介求めたアンドロスがその賄賂拒否しコージーオールバニアンドロスモホーク族それ以上交渉を強いるのを諦めたオールバニ1677年夏に続いた交渉和平合意され、それは盟約チェーン呼ばれる同盟条約基礎1つ考えられている。 アンドロスボルチモアデラウェア湾土地幾らか払い下げることを防げなかったが、メリーランド指導者がさらに大きな土地支配する試み弱らせることができた。ヨーク公最終的にそれらの土地ウィリアム・ペン譲渡し、そこは後にデラウェア州一部となった

※この「南部境界論争」の解説は、「エドマンド・アンドロス」の解説の一部です。
「南部境界論争」を含む「エドマンド・アンドロス」の記事については、「エドマンド・アンドロス」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「南部境界論争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「南部境界論争」の関連用語

南部境界論争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



南部境界論争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのエドマンド・アンドロス (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS