一揆の経過とは? わかりやすく解説

一揆の経過

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/18 07:41 UTC 版)

額田郡一揆」の記事における「一揆の経過」の解説

今川記』によれば一揆の発生した当時三河では、将軍家御一家たる吉良氏東条家西条家に分かれて対立抗争繰り返し国内国人地侍衆も両派に分かれて幾度も戦っていたという。この結果吉良氏惣領西条家(上吉良とも)の権威失墜し、これらの国侍達は西条家側・東条家側を問わず吉良氏下知に従う者がほとんど居なくなる状況であったこうした中で、寛正6年三河額田郡内において、大場次郎左衛門丸山中務入道父子左京亮等の侍たちが井口砦(岡崎市井ノ口町)に籠居して武装蜂起し京都幕府威令に服さず近国尾張国守護斯波氏)・駿河国守護今川氏)にも音信はなく、ただ「鎌倉殿」=古河公方足利成氏の命であると称して域内主要な道を封鎖して京都への租税官物を奪うなどの狼藉働いていたという。このため幕府は、同年4月29日新暦5月24日付け奉書発して三河守細川成之鎮圧命じ、成之は三河発向し、国内の有力国人である西郷六郎兵衛牧野出羽守両名にも出陣命じた西郷氏牧野氏数百軍勢三日三晩一揆側本拠地井口砦を攻めて陥落させたが、なぜか一揆大将分を全て取り逃してしまった。 そこで、幕府代わりに同国松平和泉入道戸田弾正父子新たに鎮圧命じたが、松平氏等の動き精彩欠き松平氏親類被官そして戸田氏一揆側放置または加担する動き見せたので、却って一揆勢は郡内各所に再び立ち戻って狼藉繰り返した。すなわち戸田氏知行所内の大平郷(岡崎市大平町)を徘徊したり、松平氏領内に砦を築いて立て籠もる有り様で、いまだ鎮圧できないまま時日経過した業を煮やした成之は被官飯尾彦六左衛門幕府政所執事伊勢貞親のもとに派遣して伊勢氏被官である松平氏等が一揆勢の狼藉許している状況訴えた。貞親は奉行人蜷川親元一揆の鎮圧督促する内容奉書数通を松平氏戸田氏ら宛に作成させて成之に渡した。これらが三河守護成之から伝達されると、両氏一転激しく一揆勢の拠点攻め立てた結果大場次郎左衛門深溝松平大炊助討たれ丸山中務大平郷で戸田氏討ち取ったまた、三河国外への逃亡図った芦谷助三郎大場長満寺らは駿河今川領内丸子静岡市駿河区丸子)において今川義忠討ち取られその他に賊徒5名を捕らえて京へ護送した。これによって一揆はようやく終息した。

※この「一揆の経過」の解説は、「額田郡一揆」の解説の一部です。
「一揆の経過」を含む「額田郡一揆」の記事については、「額田郡一揆」の概要を参照ください。

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