箱訴決行
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宝暦8年(1758年)6月初旬、江戸に到着した久保田九郎助、森清右衛門の2名は、先に訴訟を行っていた杉本左近や上村十郎兵衛らと異なる公事宿である下谷町松屋源助方に宿を定めた。これは篠田源兵衛の仲介があっても、やはり一向に進展しない訴訟に左近らへ対する不信感があった可能性がある。久保田九郎助、森清右衛門は、下谷町松屋源助方で宝暦4年(1754年)以降、石徹白豊前とその徒党によって荒らされた石徹白について、そして豊前らの数々の横暴な振る舞いについて指弾した訴状を書き上げ、それに持参した追放社人餓死者72名の名簿を添え、宝暦8年6月11日(1758年7月15日)、評定所の目安箱に訴状を投函する箱訴を行った。しかし全く動きが見られなかったため、宝暦8年7月2日(1758年8月5日)、宝暦8年7月21日(1758年8月24日)と箱訴を繰り返した結果、三度目の箱訴でようやく受理がなされた。
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箱訴決行
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宝暦4年7月20日(1754年9月6日)の郡上藩からの検見法言い渡しに始まった一揆は、その後幕府代官である笠松陣屋の介入があり、江戸藩邸への出訴、藩主実弟の井上家への追訴を行うも郡上藩側の弾圧を受け、宝暦5年11月26日(1755年12月28日)には老中酒井忠寄への駕籠訴を行い、ようやく訴状が受理され吟味が開始された。しかし審理は停止状態となり、駕籠訴から2年あまりが経過しても判決はなされなかった。駕籠訴の判決が下されない中、一揆勢は2度の追訴を行ったが訴状は受理されず、ここに目安箱への箱訴を行うことに決した。 当時、江戸には郡上一揆の一揆勢とともに、同じ郡上藩の預地であった石徹白で続いていた石徹白騒動の関係者も滞在していた。郡上一揆の一揆勢と石徹白騒動の関係者は情報交換を行い、その中で石徹白騒動の関係者から、郡上藩主金森頼錦は縁戚関係を利用して訴訟を握りつぶしているとの情報に接し、もはや将軍が自ら訴状の内容を確認する目安箱への箱訴を決行するしかないと判断したとの資料もある。 宝暦8年4月2日(1758年5月8日)、江戸に滞在していた郡上一揆勢のうち歩岐島村治衛門、二日町村伝兵衛、市島村孫兵衛、東俣村太郎衛門の4名と、訴訟実行の人員として派遣された向鷲見村弥十郎、剣村藤次郎の2名の計6名が、目安箱に訴状を投函する箱訴を決行した。箱訴の決行は江戸に潜伏中の駕籠訴人切立村喜四郎、前谷村定次郎が中心となって進められたと考えられるが、両名とも公式には村預けの処分中であったため訴人に名を連ねることはなかった。 訴状にはこれまでの一揆の経過を説明する中で、歩岐島騒動や気良村甚助の処刑などの藩側の不当な弾圧を指摘し、改めて吟味と訴訟の裁決を願う内容であった。また訴状の他に歩岐島騒動での一揆勢負傷者35名の名前と負傷状況を記したリストが添えられた。後の評定所での吟味において、35名のうち33名が江戸に呼び出され、厳しい尋問によって十数名が牢死し、生存者も所払いの判決を言い渡されることになる。 箱訴は宝暦8年4月2日(1758年5月8日)に続き、宝暦8年4月11日(1758年5月17日)には初回と同様の内容で2度目の箱訴を行った。結局2度目の箱訴が受理され、訴人の6名は町奉行の依田政次に呼び出され、訴状が受理され吟味が行われることを告げられた上で、6名の訴人に宿預けが言い渡された。
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