箱訴事件
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箱訴事件は、真人の悪代官を相手取り百姓が決起した事件。前述した真人事件と時を同じくしていて、庄屋新右衛門とも関係があった。 この事件には2人の主要人物がいた。1人目の、当事件の悪代官として登場する男の名は平太兵衛。彼は父七郎右衛門の跡をつぎ小千谷組大割元になった後、不法な汚職行為を行い、更に一部の庄屋を配下に置き、農民を虐げていた。延享2年の宗門帳によると当時44歳で29歳の嫁がいた7人家族の所帯持ちであった。 そして、もう1人の箱訴に及んだ百姓の名は市良左衛門。当時の宗門帳には、3人の市良左衛門がいたが年齢などから考慮すると、市良左衛門60歳、妻42歳、娘24歳の一家と考えられている。 事件の発端は、市良左衛門の父が亡くなった際の遺言が「不法に土地の占有をされている」だったこと。この不法行為があったので市良左衛門は組頭・庄屋・大割元と規則に沿って何度か訴えたものの、受理されなかった。そのような状態に市良左衛門は、正当に処理しない割元平太兵衛に対し疑念を抱いていった。1746年(延享3年)、ついに市良左衛門は大割元の上にあたる小千谷陣屋に「平太兵衛は賄賂を受け取っており、並の百姓の訴えには取り合わない」と訴えた。 しかし、当時の小千谷の陣屋では、白黒関係なくまずは投獄し取り調べも行わずに日数と費用だけ嵩ませ訴状を取り下げさせるという方法が横行していた。市良左衛門も例外なく同じような扱いを受け、更に訴訟費用として1日につき400文徴収されついに破産した。悲劇はこれに収まらず、投獄中に妻子が死去(自殺と思われる)。しかし、全てを失ったとも言える市良左衛門は失意し挫けることはなかった。彼は小千谷組万人の為に立ち上がり、「御箱訴」することを決意した。箱訴とは、江戸時代に8代将軍徳川吉宗が定めた非常手段制度で、庶民から直訴を受けるために江戸城に目安箱を設けた制度。途中、江戸の馬喰町に滞在していた際に家主から地元にもどり、正式な方法でもう一度訴訟手続きをしてはどうかと問われたが、彼の決意が揺らぐことはなかった。 そして1748年(寛延元年)11月、彼は目安箱に訴状を投じた。 彼の判断は正しかった。訴状が評定所にまわされると同年12月28日には勘定奉行が差紙が発し会津藩御物書磯四兵衛以下5人が小千谷に入り、事件主犯の割元平太兵衛をはじめ、悪行に加担していた庄屋や家族等21人が翌年の1749年(寛延2年)1月14、15日に評定所へ出頭するよう達された。また、主犯格平太兵衛の座敷には同心が逃走防止のため昼夜見張りをした。そして同月5日、役人に連れられ平太兵衛は罪人護送用の目籠に、残りは同縄で数珠続きになり雪道の峠を越え江戸に向かった。 市良左衛門が小千谷陣屋に訴え投獄され家族も財産も失ってから約5年の1750年(寛延3年)、箱訴事件の判決が下った。事件に加担した9名には科料が科され、主犯の平太兵衛は中追放(資産の没収と一定地域の立ち入り禁止)の判決が下り、家屋・田畑は没収、家財は妻子に渡された。 しかし、ここで一件落着と終わらなかった。市良左衛門も両成敗の原則により、「江戸表十里四方御講」が言い渡され、真人村への立ち入りが制限された。のちに小千谷に戻り、その際は源左ェ門と改名したという。 1751年(宝暦元年) - 4月25日 高田地震発生。 1755年(宝暦5年) - 当時、真人戸数333戸・人口1728人。 1756年(宝暦6年) - 前年の1755年が凶作の為、田中庄兵衛が真人に米17俵を施した。各地に飢饉が起こる。真人村においても例外なく飢饉に襲われ、飢え人が溢れ出した。保科喜右衛門はこれに対し、父の13回忌、母の17回忌を迎えていたため、その供養のためという理由をつけて黒米(現在の玄米)17俵をお救い米として真人村に差し出した。 1771年(明和8年) - 取安川分水の紛争が起こる。これは真人村と十日町組の野口村の間で起きた用水の取り決めに関する争いである。真人村が亀山新田・干溝新田を取安川で開作するのに対し、野口村の取安新田の用水に支障が出ると出入(江戸時代の訴訟)になり小千谷・十日町の両大割元の取り持ちで、野口村7分・真人村3分と決まった。 1773年(安永2年) - 1月14日 箱訴事件の市郎左ェ門死去。享年74歳。 1828年(文政11年) - 11月12日 三条地震発生。 1838年(天保5年) - 郷帳によるとこの年の真人村の石高は1425石と、またも小千谷で一番の生産高だった。 1841年(天保12年) - 10月29日 ムジナ退治開始。以降10日間。戦果70匹余。延べ人足446人。願人:助右衛門、庄兵衛、仙右衛門(真人田中家文書)。 1855年(安政2年) - 8月24日 若栃の田中宗養没す。享年70歳。会津保科家の医師を務めていた。 1868年(慶応4年) - 閏4月26日 新政府山道軍左縦隊が午前11時頃真人村に着陣。更に先に進んだ芋坂で会津藩兵、旧幕歩兵隊と遭遇し苦戦の末に敗る。また、雪峠でも再戦。雪峠では迎え撃つ会津藩兵・旧幕歩兵隊約200に対して、新政府軍が約3倍の人員を割き差があったが前者が勇戦。しかし、後陣の援護砲撃などにより新政府軍が午後5時過ぎに占領した。同月、新政府軍兵士1名が真人村で鶏を略奪し、老婆を誤射。当時、兵士が所属していた山道軍は軍律が厳しかった為、犯人の兵士は川原で斬首の刑に処された。 1868年(慶応4年) - 5月3日 閏4月23日から降り続く雨により信濃川で大洪水。5月9日まで晴れることなく降り続いた。
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