箱舟号とハト号
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「セシル・カルバート (第2代ボルティモア男爵)」の記事における「箱舟号とハト号」の解説
最初のアメリカ遠征は「箱舟号」と「ハト号」という2隻の船で構成され、どちらもカルバートの父ジョージの持ち船だった。ケントのグレイブゼンドから128人の開拓者を載せて出発した。その後をイギリス海軍の艦船が追いかけてきて戻らされ、法に要求されるように国王に対する忠誠を誓わされた。1632年10月にワイト島に向かい、さらに多くの開拓者を積んだ。アンドリュー・ホワイト神父などイエズス会の聖職者2人を含む200人近い開拓者が乗船し、その後に大西洋に乗り出した。 カルバートは植民地の統治について細かな指示を与えていた。その弟に、植民を妨害しようとした者について情報を送ること、ウィリアム・クレイボーンに接触して、ケント島の交易基地を作るつもりがあるのかを判断することなど、指示を与えた。また、開拓者の間で信教の寛容さの重要性を強調した。開拓者はカトリック教徒とプロテスタントの数がほぼ同数だった。これらの指示を持って、遠征隊は大西洋を渡り、チャールズ岬とヘンリー岬の間を通り、チェサピーク湾の湾口、ジェームズ川の河口に近いハンプトン・ローズと呼ばれる大きな港と湾に入った。バージニア植民地の首都ジェームズタウンでバージニアの開拓者と会った後、チェサピーク湾を奥に進んでポトマック川に至った。その後さらにポトマック川上流に進んで1634年3月25日に、ブレイキストーン島(後にセントクレメンツ島と呼ばれた)に上陸した。そこでは十字架を立て、ホワイト神父と共に最初のミサを行った。その数日後、下流に戻り、3月27日にセントメアリーズシティで(後のセントメアリーズ郡内)で最初の開拓地を設立した。そこはピスカタウェイ族インディアンの支族であるヤオコミコ族から購入した土地だった。カルバートはイングランドから、王室と政府の他の部署との政治的関係を管理しようとしていた。ケント島の交易業者クレイボーンはこの新しい開拓地に抵抗し、それに対して海から攻撃を仕掛けたことがあった。 カルバートは植民地の統治に密接にかかわっていようとしたが、一度も植民地には行かなかった。総督であった長い期間に、副官を通じてそこを統治した。最初の代行者は次弟のレナード・カルバート(1606年-1647年)、次は一人息子のチャールズ(第3代ボルティモア男爵)だった。
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