歩岐島騒動
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駕籠訴人らは足軽の護衛に囲まれながら郡上へと護送された。郡上では大勢の農民たちが定次郎ら駕籠訴人らの帰還を出迎えた。しかしせっかく郡上に戻ってきた駕籠訴人らは庄屋の納屋に幽閉された。 数ヵ月後、駕籠訴人らは庄屋の納屋から解放され家に戻ることを許された。村を出さえしなければこれまで通りの生活が出来るという。定次郎も家に戻り家族らとの再会を果たした。 四郎左衛門ら一揆の指導者たちは、農民たちから献金を募り活動資金とすることにしていた。大金を集めることに成功し、更に結束を強める一揆勢。しかしその様子を反一揆派の寝者がこっそり窺っていた。寝者は藩に密告し、藩は足軽たちに四郎左衛門の家を急襲させ、金と一揆勢の名を記した帳面を奪い取った。しかし急を聞いて大勢の農民たちが四郎左衛門の家に駆けつけてきた。そのような中、50-60名の足軽たちがやって来た。大勢の農民たちと足軽たちは乱闘となり、足軽たちは抜刀して農民たちに襲い掛かる。農民たちは石を投げ抵抗する。 騒乱の最中、村預けの身であった定次郎は農民たちによって山深い場所の小屋に案内された。混乱の中、定次郎に万一のことがあってはならないとの配慮であった。小屋には喜四郎が先に来ていた。今後の策を話し合う定次郎と喜四郎。二人は将軍が直接訴状を確認する目安箱への箱訴を行う決意を固める。箱訴を決行する以上今度こそ命は無いだろう。妻かよとの最後の別れを行い、定次郎は雪深い郡上を喜四郎らとともに後にした。
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歩岐島騒動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)
郡上藩用人の大野舎人は、駕籠訴人5名と30名の村方三役代表を対決させて、駕籠訴が受理されたとの駕籠訴人の主張を覆すもくろみが失敗した後も、一揆勢の弱体化を狙った画策を続けていた。大野は一揆勢の組織を切り崩すために資金と帳面を押収することとした。そこで一揆勢の司令塔である帳元について郡上郡内を徹底的に捜索した結果、宝暦8年(1758年)2月上旬には歩岐島村四郎左衛門が帳元の中核であると判明した。藩側はまず歩岐島村四郎左衛門を呼び出してみたが呼び出しに応じなかったため、四郎左衛門と同じ歩岐島村に住む寝者である歩岐島村久右衛門を呼び出し、四郎左衛門の様子について尋ねてみると、家に隠れて外出していないことが報告された。そこで藩側は久右衛門に対し、四郎左衛門宅から帳面と金銭を奪い取るよう指示した。 宝暦8年2月24日(1758年4月2日)、郡上藩の足軽4名と歩岐島村久右衛門を始め十数人の寝者農民が、歩岐島村久右衛門の家に押し入り、帳面、金銭などを奪った。歩岐島村四郎左衛門はからくも逃げることに成功し、隣家に匿われた。帳元元締めの歩岐島村四郎左衛門の家に藩足軽、寝者が押し入り、金銭や帳面を奪い取ったことを聞きつけた近隣の一揆勢は、さっそく大挙して駆けつけ、久右衛門ら四郎左衛門の家に押し入った寝者を捕らえ、逆に四郎左衛門宅に監禁した。 久右衛門ら四郎左衛門の家に押し入った寝者を四郎左衛門宅に監禁した後、郡上郡内の15歳から60歳の男性は歩岐島村の帳元のところに集結するよう回状が回った。その結果、宝暦8年2月26日までに約3000人の立者農民が集結した。事態を寝者農民から知らされた藩側は驚き、約30名の小頭、足軽を歩岐島村に派遣した。歩岐島村に到着した藩側の小頭、足軽は、大勢の一揆勢を前に、このように大勢で集まることは不届き千万であると叱った。すると一揆勢は、先日、歩岐島村四郎左衛門の家から帳面、金銭などを奪われたが、奪った盗人を拘束している。盗人を取り調べて帳面、金銭などを返してもらいたいと主張した。そこで藩側は取り調べを行うので拘束している久右衛門を引き渡すよう伝え、一揆勢もこれに納得したため久右衛門は藩側に引き渡された。しかし翌日、新たに足軽20人が増派されると、棒で一揆勢を殴りつけながら歩岐島村四郎左衛門を拘束しようとした。武器を持っていなかった一揆勢はいったん退却したが、帳面、金銭を奪われたあげくに暴力まで受けて引き下がるわけにはいかないと、石を大量に集めて四郎左衛門の家を取り囲み、大声を上げながら投石を行った。最初は藩側の小頭、足軽らは棒で応戦していたが、大勢の一揆勢の投げる石の雨に見舞われ、命の危険を感じ抜刀した。しばらくして石の雨が弱まったと見るや、小頭、足軽らは血路を開こうと一揆勢に刀を振り回しながら突入し、一揆勢も大勢が負傷しながら応戦した。結局機転を利かせた藩側の足軽頭が「後詰早く来い、早く来い!」と、実際には配備していなかった後詰を呼ぶ声を発し、新たな増援部隊がやって来ると一揆勢を警戒させた上、折からの土砂降りの雨にも乗じて何とか逃げ切った。一方一揆勢も藩側の大規模反攻を警戒していったん山林に隠れた上で、やはり土砂降りの雨に乗じて解散した。 この歩岐島騒動と呼ばれる郡上一揆で最大の一揆勢と郡上藩側との衝突により、死者こそ出なかったものの、一揆側農民は30名あまりの重軽傷者を出し、藩側の小頭、足軽も17名の負傷者を出した。歩岐島から何とか逃げてきた小頭、足軽たちの報告を聞いた藩側は、このような騒動が起きた以上、一揆勢の首謀者たちは江戸に訴えに行くと想定し、また郡上郡中の村方三役に対して騒動参加者について報告を命じた。藩側の動きを察知した一揆勢は、歩岐島村四郎左衛門の名で「藩側の足軽たちに理不尽な仕打ちを受けたことに納得できない。参上して談判したい」との書状を藩側に送りつけた。一揆勢が大挙して郡上八幡城下に殺到する事態を恐れた藩側は急ぎ防備を固めた。その隙を突き、一揆勢の指導者クラスであった歩岐島村治衛門、剣村藤次郎らが郡上郡内から脱出した。 また歩岐島騒動の発端となった歩岐島村四郎左衛門宅にあった帳面は、何者かがひそかに持ち出していて一揆側が保持し続けていた。このことは秘密にされており、帳面が藩、反一揆勢に奪われたことにしておくことは、郡上一揆の訴訟を有利に進めるための一揆勢の作戦であった。
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