歩岐島騒動とは? わかりやすく解説

歩岐島騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 13:51 UTC 版)

郡上一揆 (映画)」の記事における「歩岐島騒動」の解説

駕籠訴人らは足軽護衛囲まれながら郡上へと護送された。郡上では大勢農民たちが定次郎駕籠訴人らの帰還出迎えた。しかしせっかく郡上戻ってきた駕籠訴人らは庄屋納屋幽閉された。 数ヵ月後、駕籠訴人らは庄屋納屋から解放され家に戻ることを許された。を出さえしなければこれまで通りの生活が出来るという。定次郎も家に戻り家族らとの再会果たした四郎左衛門一揆指導者たちは、農民たちから献金募り活動資金とすることにしていた。大金集めることに成功し、更に結束強め一揆勢。しかしその様子を反一揆派の寝者がこっそり窺っていた。寝者は藩に密告し、藩は足軽たちに四郎左衛門の家を急襲させ、金と一揆勢の名を記した帳面奪い取った。しかし急を聞いて大勢農民たちが四郎左衛門の家に駆けつけてきた。そのような中、50-60名の足軽たちがやって来た。大勢農民たちと足軽たちは乱闘となり、足軽たちは抜刀して農民たちに襲い掛かる農民たちは石を投げ抵抗する騒乱最中村預けの身であった定次郎農民たちによって山深い場所の小屋案内された。混乱の中、定次郎万一のことがあってはならないとの配慮であった小屋には喜四郎先に来ていた。今後の策を話し合う定次郎と喜四郎二人将軍直接訴状確認する目安箱への箱訴を行う決意固める。箱訴決行する以上今度こそ命は無いだろう。妻かよとの最後別れ行い定次郎雪深い郡上を喜四郎とともに後にした。

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歩岐島騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)

郡上一揆」の記事における「歩岐島騒動」の解説

郡上藩用人大野舎人は、駕籠訴人5名と30名の村方三役代表を対決させて、駕籠訴受理されたとの駕籠訴人の主張覆すもくろみ失敗した後も、一揆勢の弱体化狙った画策続けていた。大野一揆勢の組織切り崩すために資金帳面押収することとした。そこで一揆勢の司令塔である帳元について郡上郡内を徹底的に捜索した結果宝暦8年1758年2月上旬には歩岐島村四郎左衛門帳元中核であると判明した。藩側はまず歩岐島村四郎左衛門呼び出してみたが呼び出し応じなかったため、四郎左衛門と同じ歩岐島村に住む寝者である歩岐島村右衛門呼び出し四郎左衛門様子について尋ねてみると、家に隠れて外出していないことが報告された。そこで藩側は久右衛門対し四郎左衛門宅から帳面と金銭を奪い取るよう指示した宝暦8年2月24日1758年4月2日)、郡上藩足軽4名と歩岐島村右衛門始め十数人の寝者農民が、歩岐島村右衛門の家に押し入り帳面金銭などを奪った歩岐島村四郎左衛門からくも逃げることに成功し隣家に匿われた。帳元元締め歩岐島村四郎左衛門の家に藩足軽、寝者が押し入り金銭帳面奪い取ったことを聞きつけた近隣一揆勢は、さっそく大挙して駆けつけ、久右衛門四郎左衛門の家に押し入った寝者を捕らえ逆に四郎左衛門宅に監禁した。 久右衛門四郎左衛門の家に押し入った寝者を四郎左衛門宅に監禁した後、郡上郡内の15歳から60歳男性歩岐島村帳元ところに集結するよう回状が回ったその結果宝暦8年2月26日までに約3000人の立者農民集結した事態を寝者農民から知らされた藩側は驚き、約30名の小頭足軽歩岐島村派遣した歩岐島村到着した藩側の小頭足軽は、大勢一揆勢を前にこのように大勢で集まることは不届き千万であると叱った。すると一揆勢は、先日歩岐島村四郎左衛門の家から帳面金銭などを奪われたが、奪った盗人拘束している。盗人取り調べて帳面金銭などを返してもらいたい主張した。そこで藩側は取り調べを行うので拘束している久右衛門引き渡すよう伝え一揆勢もこれに納得したため久右衛門は藩側に引き渡された。しかし翌日新たに足軽20人が増派されると、棒で一揆勢を殴りつけながら歩岐島村四郎左衛門拘束しようとした武器持っていなかった一揆勢はいったん退却したが、帳面金銭奪われたあげくに暴力まで受けて引き下がるわけにはいかないと、石を大量に集めて四郎左衛門の家を取り囲み大声上げながら投石行った最初は藩側の小頭足軽らは棒で応戦していたが、大勢一揆勢の投げる石の見舞われ、命の危険を感じ抜刀した。しばらくして石の弱まったと見るや、小頭足軽らは血路開こう一揆勢に刀を振り回しながら突入し一揆勢も大勢負傷しながら応戦した結局機転利かせた藩側の足軽頭が「後詰早く来い早く来い!」と、実際に配備していなかった後詰を呼ぶ声を発し新たな増援部隊やって来る一揆勢を警戒させた上、折から土砂降りにも乗じて何とか逃げ切った一方一揆勢も藩側の大規模反攻警戒していったん山林隠れた上で、やはり土砂降り乗じて解散した。 この歩岐島騒動と呼ばれる郡上一揆最大一揆勢と郡上藩側との衝突により、死者こそ出なかったものの、一揆側農民30名あまりの重軽傷者を出し、藩側の小頭足軽17名の負傷者出した。歩岐島から何とか逃げてきた小頭足軽たちの報告聞いた藩側は、このような騒動起きた以上、一揆勢の首謀者たちは江戸訴えに行くと想定し、また郡上郡中の村方三役に対して騒動参加者について報告命じた。藩側の動き察知した一揆勢は、歩岐島村四郎左衛門の名で「藩側の足軽たちに理不尽な仕打ち受けたことに納得できない参上して談判したい」との書状を藩側に送りつけた。一揆勢が大挙して郡上八幡城下に殺到する事態恐れた藩側は急ぎ防備固めた。その隙を突き一揆勢の指導者クラスであった歩岐島村衛門剣村藤次郎らが郡上郡内から脱出した。 また歩岐島騒動の発端となった歩岐島村四郎左衛門にあった帳面は、何者かがひそかに持ち出していて一揆側保持し続けていた。このことは秘密にされており、帳面が藩、反一揆勢に奪われたことにしておくことは、郡上一揆訴訟有利に進めるための一揆勢の作戦であった

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