駕籠訴人切立村喜四郎、前谷村定次郎の脱走と一揆勢の体制再構築
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「郡上一揆」の記事における「駕籠訴人切立村喜四郎、前谷村定次郎の脱走と一揆勢の体制再構築」の解説
歩岐島騒動による混乱の最中、村預け中であった駕籠訴人切立村喜四郎、前谷村定次郎の両名は監禁中の自宅を出て、飛騨との国境近くの山深い場所の、猪や鹿などの害獣から農地を守るために設けられた鹿番小屋に一時期身を隠した後、前谷村吉郎治、切立村吉十郎とともにひそかに江戸へと向かった。 切立村喜四郎、前谷村定次郎らが行った駕籠訴は、審理が事実上ストップしていたとはいえまだ判決が出ていない未決状態のままであり、幕府から身柄を預かった郡上藩が村預け処分を行っていた。つまり郡上藩側としては幕府の未決状態の囚人に脱走されたことになり、まず藩内を必死になって捜索した。しかしすでに江戸に向かっていた切立村喜四郎、前谷村定次郎を見つけ出せるはずがなく、宝暦8年(1758年)3月20日過ぎになって幕府に駕籠訴人切立村喜四郎、前谷村定次郎の逃亡を届け出た。郡上藩内での厳しい捜索状況と、幕命に反して逃亡した形となったことを懸念した関寄合所は、まず両名に幕府への自首を勧めた。しかし喜四郎、定次郎ともにすぐには自首せず、再度の追訴、そして目安箱への箱訴の実行に尽力し、宝暦8年(1758年)8月末、評定所での裁判が始まった後に自首した。 また郡上藩から報告を受けた幕府も、前谷村と切立村の庄屋、組頭らを江戸に呼び出し、宝暦8年4月21日(1758年5月27日)、30日以内に切立村喜四郎、前谷村定次郎の両名を探し出すよう命じた。しかしやはり江戸に出ていた両名を探し出せるはずもなく、6月になって捜索期限の日延べを願い出た。 歩岐島騒動後、藩側は騒動参加者そして駕籠訴人切立村喜四郎、前谷村定次郎の捜索とともに、一揆勢による半ば自治状態となっていた上之保筋に対する締め付けを開始した。そのような中、宝暦8年(1758年)3月には上之保筋での一揆勢優勢という状況下で一時期活動を休止していた関寄合所の活動を、歩岐島村四郎左衛門を中心として再開することとした。一揆勢は藩側の攻勢に対し、関寄合所を中心とした体制を再構築し、江戸と郡上郡内との連絡調整、闘争資金の調達、そして一揆の訴訟作戦を進めていくことになる。
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