駕籠訴の吟味開始と広がる波紋
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「郡上一揆」の記事における「駕籠訴の吟味開始と広がる波紋」の解説
宝暦5年12月18日(1756年1月19日)、駕籠訴人願主の5名が町奉行の依田政次に呼び出され吟味を受け、宿預けとなる。宝暦5年12月18日(1756年1月19日)、宝暦6年(1756年1月19日)以降、町奉行依田政次によって駕籠訴人が提出した訴状の内容についての吟味が続けられた。そして笠松陣屋に提出を指示され、飛脚が陣屋へ向かう際に農民らに奪われた三家老の免許状も依田町奉行に提出された。 駕籠訴によって郡上一揆の吟味が行われることとなり、あわてたのが美濃郡代代官の青木次郎九郎に対し、郡上藩の年貢徴収法改正問題への介入を命じた幕府勘定奉行の大橋親義らであった。幕領ではない郡上藩の年貢徴収法に対して幕府の代官が命令することは筋違いの異例な措置であり、事実が明るみに出れば問題とされるのは明らかであった。大橋親義はともに郡上藩の年貢徴収法改正問題への介入を行った大目付の曲淵英元らと相談してもみ消し工作を行い、更に町奉行による駕籠訴についての吟味や、宝暦7年(1757年)に行われた勘定所内の吟味においても、大橋はやはり曲淵らと話を合わせながら、美濃郡代の郡上藩年貢徴収法改正問題への介入への関与を否定し続けた。 宝暦5年12月6日(1756年1月7日)、関寄合所に江戸からの駕籠訴決行の知らせが届いた。藩側の弾圧により窮地に追い込まれていた一揆勢にとって、駕籠訴決行は反転攻勢のきっかけとなった。同時期に駕籠訴について連絡を受けた郡上藩側は、まずは拘束していた農民に厳しい事情聴取を行ったが、続いて一揆勢との対立を和らげることを目的とした妥協策を立てることになった。 また駕籠訴決行の連絡後、江戸からは駕籠訴の願主から資金不足について訴える書状が届けられている。江戸で訴訟を進めていくためには多くの資金が必要となるため、闘争資金の調達が大きな課題となってきた。またこの時期の願主からの書状には、郡上には「犬」がいると聞いているので、これまで交わした書状の扱いなどには十分に気をつけるように書かれているものがあり、一揆勢にとって体制を固めていくことが大きな課題となっていた。
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