駕籠訴人と村方三役代表との対決
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「郡上一揆」の記事における「駕籠訴人と村方三役代表との対決」の解説
宝暦6年8月27日(1756年9月21日)、郡上藩側から、郡上郡内の村方三役から庄屋10名、組頭10名、百姓代10名の計30名が選ばれ、駕籠訴吟味において事情を確認するため江戸に向かわせることが言い渡された。一揆勢との軋轢に悩んでいた村方三役にとって、江戸で駕籠訴吟味の事情聴取を受けることは大きな負担であり、遠慮したい旨嘆願した。一部の村方三役は江戸行きを強く拒否して逃走し、入牢、手鎖処分を受けた者もいたが、幕府の手によって進められている吟味を断りようもなく、9月に入って郡上藩代官猪子庄九郎、別府弥角の引率で30名の村方三役は江戸に向かい、宝暦6年9月17日(1756年10月10日)到着した。 宝暦6年10月24日(1756年11月16日)、町奉行の依田政次役宅に5名の駕籠訴人と30名の村方三役が呼び出され、両者が対決する形で駕籠訴の吟味が進められた。吟味は駕籠訴で提出された訴状の内容について確認する方法で進められ、依田町奉行は5名の駕籠訴人の申し立てに好意的であり、吟味も優勢に進められた。また30名の村方三役に付き添った代官猪子庄九郎、別府弥角にも尋問がなされたが、両代官は厳しく叱責された。 老中の駕籠になされた駕籠訴が受理され、町奉行による駕籠訴吟味の内容が一揆側の農民たちに比較的好意的であったのは、幕府内の路線対立が影響しているとの説がある。当時、あくまで年貢増徴によって幕府財政を維持しようという派と、年貢増徴策に対する農民たちの頑強な抵抗を目の当たりにして、年貢増徴策一本槍の財政再建に批判的な派の対立が表面化しており、郡上一揆の駕籠訴吟味は、年貢増徴策一本槍の財政再建に批判的な派閥によって推進されていたため、一揆勢に好意的なものになったと考えられる。 また駕籠訴吟味が一揆勢に好意的であったことは、その後の一揆活動に少なからぬ影響を与えた。幕府は一揆勢の訴えに好意的であると判断したため、駕籠訴吟味の判決が出されることなく継続した一揆の裁きを、農民たちは目安箱への箱訴を行い改めて幕府に求めた。しかし箱訴によって開始された評定所での吟味は、一転農民たちにとって極めて厳しいものになった。
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