駕籠訴人の帰国と駕籠訴吟味の停滞
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「郡上一揆」の記事における「駕籠訴人の帰国と駕籠訴吟味の停滞」の解説
宝暦6年10月24日(1756年11月16日)に町奉行の依田正次役宅で行われた5名の駕籠訴人と30名の村方三役の吟味後、宝暦6年(1756年)12月、駕籠訴人と村方三役代表双方に帰国が言い渡された。村方三役代表は自由に郡上へ向かうよう言い渡されたが、駕籠訴人5名は郡上藩の江戸藩邸から25名の足軽が付き添い、郡上へと向かった。 5名の駕籠訴人は当時罪人扱いの者が乗せられた、籐丸駕籠に乗せられることもない上に、当時百姓身分では厳禁であった帯刀をして郡上へ向かった。なお、郡上への帰途に帯刀したことは後に行われる郡上一揆の幕府評定所での判決で罪状の1つに挙げられることになる。宝暦7年1月7日(1757年2月24日)、大勢の一揆勢農民の出迎えを受け、駕籠訴人は郡上へ戻った。駕籠訴人は郡上藩側から村預けを言い渡され、各村の庄屋宅の座敷牢に監禁処分となった。各駕籠訴人の座敷牢は郡上藩の足軽、そして各村の農民らによって昼夜わかたず交代で見張り番が行われ、親類縁者や立者農民との接触は厳しく禁止された。 駕籠訴人の帰国によって一揆勢の活動は更に盛り上がり、駕籠訴受け入れの判決が下るであろうとの内容の文書を郡上郡内に広めた。一方、駕籠訴人と同時期に郡上へ戻った30名の村方三役代表や藩側は、駕籠訴は却下されたと触れ回った。実際には駕籠訴の吟味は裁決が下されることなく放置された。一揆勢の中で急進派であった上之保筋の立者は一揆勢有利の裁決が下されるものと楽観視して活動を更にエスカレートさせていくが、明方筋や下川筋の立者は上之保筋の活動に必ずしも同調せず、駕籠訴の吟味についても店晒しになるのではないかと冷静に分析していた。なお、駕籠訴の吟味は進められることなく放置されたが、幕府内部では宝暦7年(1757年)から宝暦8年(1758年)にかけて、郡上藩の年貢徴収法について幕府役人である美濃代官が介入したことに関して、勘定奉行の大橋親義に対する事情聴取は続行されており、これは幕府内(特に勘定所内)での年貢増徴派と反年貢増徴派の路線対立が影響していた。 郡上帰国当初、厳しい軟禁状態に置かれた駕籠訴人であったが、宝暦7年(1757年)3月には見張り役の足軽が引き上げ、同月、庄屋宅の座敷牢に監禁されていたものが自宅軟禁へと切り替わった。その後駕籠訴人らは村預け処分は変更されないものの、駕籠訴人名義で各村に回状を回すなど一揆勢の指導的な役割を果たすようになる。
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