新町太平治の投獄と一揆勢の暴動
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「郡上一揆」の記事における「新町太平治の投獄と一揆勢の暴動」の解説
郡上郡内の農民が一揆勢である立者と反一揆勢である寝者とに分かれ、激しく対立する中で、郡上八幡の城下町にも一揆勢に味方する町方立者が現れるようになった。そのような町方立者の1人に新町太平治がいた。太平治は一揆勢に肩入れしているため郡上藩役人に狙われていたが、宝暦7年(1757年)10月、自宅に商人を宿泊させながら藩庁に届けを出すのが遅れたことを咎められ、微罪であるのにもかかわらず投獄されてしまった。 子細なことで町方立者の新町太平治が入牢させられたことを聞き、一揆勢としてもこのままにはしておけないとして、宝暦7年10月26日(1757年12月7日)、郡上郡内で動員された600名あまりの一揆勢農民が町名主の原茂十郎宅に押しかけ、藩庁に新町太平治の赦免願いを提出するように圧力をかけた。しかし原茂十郎は要求を受け入れようとしなかったため、一揆勢は原茂十郎宅で暴れまわった。騒ぎを聞きつけた藩側から数十名の小頭、足軽が駆けつけ、「訴えを取り次ぐのでまず静まるよう」説得した。一揆勢は説得を受け入れ、各村々に引き上げる最中、200名程度にまで少なくなったところに100名あまりの小頭、足軽が追いつき、一揆勢を率いていた気良村甚助、寒水村由蔵、大久角村喜平次、那比村助次郎の四名が呼び出され、領主を恐れず騒動を起こすとは不届きであると強く叱られた。直後に一揆勢と小頭、足軽との間に小競り合いが起き、一触即発の状態となったが、このときは仲裁する者がいたため騒動になることはなかった。 一揆勢の暴動が藩側の対応によって抑えられたことを見て、寝者農民の勢いが増した。そのような中で一揆勢をさらに抑圧するような動きが計画されるようになった。これが翌年の歩岐島騒動の伏線となった。
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