新町太平治の投獄と一揆勢の暴動とは? わかりやすく解説

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新町太平治の投獄と一揆勢の暴動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)

郡上一揆」の記事における「新町太平治の投獄と一揆勢の暴動」の解説

郡上郡内の農民一揆勢である立者と反一揆勢である寝者とに分かれ激しく対立する中で、郡上八幡城下町にも一揆勢に味方する町方立者現れるようになったそのような町方立者1人新町太平治がいた。太平治は一揆勢に肩入れしているため郡上藩役人狙われていたが、宝暦7年1757年10月自宅商人宿泊させながら藩庁届けを出すのが遅れたことを咎められ微罪であるのにもかかわらず投獄されてしまった。 子細なことで町方立者新町太平治が入牢させられたことを聞き一揆勢としてもこのままにはしておけないとして宝暦7年10月26日1757年12月7日)、郡上郡内で動員され600名あまりの一揆農民が町名主原茂十郎宅に押しかけ藩庁新町太平治の赦免願い提出するように圧力をかけた。しかし原茂十郎要求受け入れようとしなかったため、一揆勢は原茂十郎宅で暴れまわった騒ぎ聞きつけた藩側から数十名の小頭足軽駆けつけ、「訴え取り次ぐのでまず静まるよう」説得した一揆勢は説得受け入れ、各々に引き上げ最中200程度にまで少なくなったところに100名あまりの小頭足軽追いつき、一揆勢を率いていた気良村甚助寒水村由蔵大久喜平次、那比村助次郎の四名が呼び出され領主恐れず騒動起こすとは不届きであると強く叱られた。直後一揆勢と小頭足軽との間に小競り合い起き一触即発の状態となったが、このときは仲裁する者がいたため騒動になることはなかった。 一揆勢の暴動が藩側の対応によって抑えられたことを見て、寝者農民勢い増したそのような中で一揆勢をさらに抑圧するような動き計画されるようになった。これが翌年歩岐島騒動伏線となった

※この「新町太平治の投獄と一揆勢の暴動」の解説は、「郡上一揆」の解説の一部です。
「新町太平治の投獄と一揆勢の暴動」を含む「郡上一揆」の記事については、「郡上一揆」の概要を参照ください。

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