新町宿の指定と展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/13 17:22 UTC 版)
新町宿は落合村と笛木村が合体してできた宿場町である。新町宿成立の経緯と地名の由来は、『多野藤岡地方誌』に示されている。 古くは東から南の一帯が上野国緑野(原典ママ)郡笛木村、西から北にかけてが下落合村であった。下落合とは神流川が烏川に合流するところなので、これに由来する名称であろう。下落合に対しては旧美土里村(藤岡市)に大字上落合があるが 、中山道が開通してからは下落合といわず、単に落合といい、落合新宿または落合新町といった。 — 多野藤岡地方誌 地古文書・古記録には、新町宿は落合村と苗木村から構成されることから 「落合新町」「笛木新町」と区分された記述があり、行政的には両者独立していたという。 新町宿の石高は、安政3年(1856年)の「新町熊谷間五ヶ宿盛衰其他内調書上」によると863石1斗8升6合とされている。近隣の本庄宿では2149石8斗7升1合、熊谷宿では2024石5斗4升2合であった。新町宿の助郷村の状況は、江戸時代末期の助郷村調によると,13,232石で, 定助郷32ヶ村,であった。新町宿の宿内の内訳は、天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、家数は407軒、うち本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠43軒で宿内人口は1,473人であった。嘉永5年(1852年)の「嘉永5子年宿方銘細書上帳」によると、新町宿の本陣2軒、脇本陣1軒、問屋4軒、旅籠屋42軒とされている。 新町宿の状況は調書の報告によると「乱宿事実善悪で先ず平凡」であったという。
※この「新町宿の指定と展開」の解説は、「新町宿」の解説の一部です。
「新町宿の指定と展開」を含む「新町宿」の記事については、「新町宿」の概要を参照ください。
- 新町宿の指定と展開のページへのリンク