一揆の進展と藩の対応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/12/30 08:16 UTC 版)
鳥取藩側の史料である『御国日記』などによれば、一揆は元文4年(1739年)2月19日に因幡国岩井郡から始まり、一行は八東郡へ向かったという。その一方で当時岩井郡の大庄屋を務めていた中村半兵衛の日記・『御用日記』には「(半兵衛の下から派遣された)谷田利平らが一揆勢の中に岩井郡の者が一人もいないことを確認して帰ってきた」とする記述がある。一説に2月11日~12日にかけて岩井郡で不穏な動きが見られたことが原因とされる。しかし、この件に関しては一揆発生前に取調べが終了し、庄屋が閉門に処せられるなど沈静化した様子が見られることから、一揆との直接的な関係があったのかは不明である。 2月20日、西御門村で勘右衛門らと合流した一揆勢は若桜の大庄屋・木島市郎右衛門の屋敷を打ち壊した。一報を聞いて駆けつけた在吟味役・小谷新右衛門、郡奉行・安田清左衛門ら藩の役人を追い返した一揆勢は各地で年貢の取立てに熱心な大庄屋などの住む屋敷の打ち壊しを行い、食事などの支給を受けながら城下の鳥取へと向かった。 一方、伯耆においても因幡での動きに呼応して各地から参加者が集まり、城下へ向かった。途中、気多郡・高草郡を通過し、約2万人に膨れ上がった伯耆勢は打ち壊しなどの破壊行為は行わず、因幡勢より一足早く到着、城下近郊の千代川河川敷に集結した。 2月23日、24日にかけては因幡勢が合流、最終的に約5万人あまりに膨れ上がったという。藩側は一揆勢を刺激しないように勤め、鳥取の町目付を派遣して対応、一揆勢からの願書を受理した。また、2月23日付けで郡代・米村広当らを罷免・閉門に処し、翌日には前の郡代・松井番右衛門を後任として対応させた。2月25日、松井番右衛門は12条から成る回答書を一揆勢に提示、一部の参加者は村へ帰るものも現れたが、大半の者は残っており、また新たに願書を提出した。これも受理されたようだが、内容については不明である。2月26日には一部の者が城下へ乱入を試みるも失敗、翌日には目付らの説得と長期化による疲労により、ほとんどの参加者が帰宅した。
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