一揆への対抗と蜂起
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/03 17:15 UTC 版)
ルール地方は最初に3月17日のゼネスト宣言に反応した地域の一つで、例えばボーフムでは20,000人規模のデモが行われた。また反乱最中の3月14日にはエルバーフェルトにてドイツ共産党(KPD)、ドイツ独立社民党(USPD)、ドイツ社民党(SPD)の幹部らによる会議が開かれている。こうした状況の中で各左派政治組織と左派労働者らはカップ率いる反乱軍に対抗する為の協力を決断したのである。共産党、独立社民党、社民党は共同声明の中で「プロレタリア独裁による政治権力の実現」(Erringung der politischen Macht durch die Diktatur des Proletariats)という目標を宣言した。 この宣言を受け、一部の地域では徒党を組んだ労働者らがゼネストの一環と称して共和国政府からの政治権力の剥奪を試み、ルール地方各地の大都市圏では「行政評議会」(Vollzugsräte)を自称する労働者組織が地方行政を支配し始めた。多くの場合、評議会では独立社民党が実権を握っていたが、共産党が優勢だった地域もある。しかしまもなくアナルコサンディカリスム的組織であるドイツ自由労働者組合(ドイツ語版)(FAUD)が結成され、これに所属する労働者兵士(Arbeitersoldaten)らが都市の支配を強めていった。 労働者兵士らによって組織されたルール赤軍の戦力は50,000人程度であったとされる。大量の小銃等で武装したルール赤軍の労働者兵士らは各地に残存していた共和国政府側戦力を短期間の内に駆逐していった。赤軍に参加した者の多くは第一次世界大戦の復員兵で、労働者評議会の幹部にも復員兵がいた。彼らは少集団単位で活動し、自転車で移動する事が多かった。 1920年3月15日、ヴェッター(ドイツ語版)の守備にあたっていたオットー・ハーゼンクレーファー大尉(Otto Hasenclever)率いるリヒトシュラーク義勇軍(ドイツ語版)を武装労働者が襲撃した。ハーゼンクレーファーは国旗団の元団員で、カップ一揆の指導者だったフォン・リュトヴィッツ将軍との関係も深い第6軍管区長オスカル・フォン・ヴァッター(ドイツ語版)将軍の指揮下で働いていた。この戦闘でハーゼンクレーファー大尉を含む軍人11名、襲撃側の労働者6名が死亡した。 1920年3月17日、リヒトシュラーク義勇軍主力部隊が壊滅。労働者側は義勇軍が保有していた銃器等の装備を大量に鹵獲し、また義勇軍の兵士600名を捕虜とした上、ドルトムントを支配下に置いた。 3月20日、エッセンにてルール地方における支配組織たる労働者評議会(ドイツ語版)中央評議会が設置され、ハーゲンには中枢(Zentrale)が設置された。 3月24日、ヴェーゼル城塞(ドイツ語版)に対する労働者側の襲撃が行われる。 3月30日、共和国政府は労働者評議会中央委員会に対して蜂起の中止を求める最後通牒を送り4月2日までの猶予期間を設けるが、評議会ではこれを拒否した。 これと共に共和国政府は労働者評議会の権利を一定の範囲で認めるビーレフェルト協定(ドイツ語版)(Bielefelder Abkommen)を締結して紛争の解決を試みたが、フォン・ヴァッター将軍らが公然とこれを無視して交戦を続けた為に失敗に終わっている。 これを受けて労働者側が新規ゼネストを宣言、労働力の75%に当たる40万人以上の鉱山労働者がこれに共同した。勢力を増したルール赤軍はデュッセルドルフとエルバーフェルトを占領。3月末までにルール地方全域を支配下に置いた。 ルール赤軍の組織構造は政治的要求および地域ごとに大きく異なる労働者評議会のあり方を反映して頻繁に変化した。その結果、やがて東西の組織間で格差や反目が発生しはじめる。東部では初期から参加していた独立社民党派が実権を握っており、彼らはルール確保後の革命拡大を予定してはいなかった。一方、西部では蜂起の拡大に伴って後から参加した者やアナルコサンディカリスム派が実権を握っており、彼らはさらに革命を拡大していくことを望んでいた。
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