一揆勢の反転攻勢開始と藩側の対応
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「郡上一揆」の記事における「一揆勢の反転攻勢開始と藩側の対応」の解説
宝暦5年(1755年)末、関寄合所から郡上郡内へ送られた回状で、駕籠訴の決行と幕府による吟味が開始されたことを伝えるとともに、駕籠訴によって一揆が解決するとの見通しを伝え、併せて運動資金の調達を依頼した。このように駕籠訴は藩側の弾圧によって弱体化した一揆勢の組織再強化に格好の材料となった。また宝暦5年(1755年)末以降、一揆勢を構成する農民たちは駕籠訴を決行した5名の願主に対して証文を提出して結束を固めるようになった。駕籠訴の願主は立者と呼ばれる一揆勢から御駕籠訴様、願主様ないし大御公儀様と呼ばれるようになり、組織の象徴として強い権威を持つようになっていった。また一揆勢の間で指導者を選び出し、選ばれた指導者と一揆参加者がお互いに頼み頼まれ証文という証文を交わすといった組織固めが始まった。この組織は既存の村方三役といった農村組織とは異なった一揆勢独自のものであり、一揆組織の指導者を帳元と呼んだ。 駕籠訴の受理を受け、郡上藩の別邸に監禁されていた40名の農民代表は釈放された。宝暦6年1月6日(1756年2月5日)、釈放された農民代表のうち15名が飛脚のように郡上に急ぎ帰った。江戸から郡上に戻った15名の農民代表から江戸の状況が詳しく知らされるとともに、江戸に残った農民代表は郡上に帰る旅費が工面できないので資金を送るように要請された。なお15名の農民代表が郡上に帰る際、藩側は農民たちに検見法を取りやめる代わりにこれまでの定免法で税率2分5厘増しとするという内容の、一揆勢との妥協案を記した添状を託した。郡上に戻った農民代表はすぐに郡上藩側に添状を渡した。 宝暦6年1月18日(1756年2月17日)、郡上藩側は郡上郡内の村方三役を呼び出したが、明方筋、上之保筋の三役らはほとんど逃散し、下川筋の三役も逃散が相次ぎ、結局下川筋24村の村方三役が、藩側から検見法を取りやめる代わりにこれまでの定免法で税率2分5厘増しとするという内容の申し渡しを受けた。24村の村方三役は農民たちの意見を確認したいとして即答を避けた。藩側の意向で24村の村方三役は逃散した各村の村方三役にも藩側の意向を伝え、郡上郡内の村方三役は農民たちに検見法取りやめ、定免法で税率2分5厘増しとの藩側の妥協案を伝えた。しかし農民たちはこれまでかたくなに検見法にこだわっていた藩側が、駕籠訴が行われるや妥協案を提案してきたことに何か裏があるのではないかと考え、藩側の提案を受け入れようとはしなかった。結局村方三役らは宝暦6年1月25日(1756年2月24日)、農民らが承知しないとして藩側の提案を断った。
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