一揆勢の集結・交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 01:27 UTC 版)
12月3日、真島・大庭の両郡の北部にあたる山中地域(現 真庭市の湯原、蒜山の全域、真庭市の勝山、美甘地区の一部、真庭郡新庄村)の農民3000~4000人が久世村に集結。4日、久世周辺の農民と合流。一揆勢の指導者6人(仲間村牧分の徳右衛門、見尾村の弥治郎、小童谷村の半六、大森村の七左衛門・喜兵次、土居村の忠右衛門)が井九太夫と交渉。井九太夫は「藩の正式代表が来るまで」と、久世の郷蔵を一揆勢に渡す。一揆勢は近辺の大庄屋、中庄屋などの屋敷の打ちこわしを行う。 この知らせが津山に届くと、城中で緊急の評定が開かれる。一揆の状況はすでに津山藩領の東部にまで伝わっており、領内全土に一揆が起こりかねない状況であった。大庭郡代官の山田丈八と真島郡代官の三木甚左衛門が藩の代表として派遣され、6日以降一揆側と交渉することになる。 12月10日、一揆側は以下の6つの要求のうち、4.を除く5つを津山藩に認めさせ解散した。 年貢の未納分の14%は納入を免除すること 作付高に対し四歩加免は免除すること 大庄屋から借りて払った年貢米を免除すること 米以外の大豆納、炭焼き、木地挽き等の諸運上銀を免除すること 藩が任命する大庄屋・村庄屋を廃止して、農民が選んだ状着(農民代表)を置くこと 大庄屋・中庄屋・村庄屋に与えられた特別の権益を廃止し、諸帳簿を農民に渡すこと この後、4.の要求が拒否されたことに刺激され、津山藩領の全域に百姓一揆が派生し、藩は概ね上記と同様の要求を認めた。これにより百姓一揆は一旦収まった。19日、津山藩はこの騒ぎのすべての責任を久保新平に負わせ、久保を処分した。
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