一揆勢の侵攻と南部軍の反撃
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「岩崎一揆」の記事における「一揆勢の侵攻と南部軍の反撃」の解説
忠親が挙兵した時、南部氏の主力は慶長出羽合戦に出兵していた。そのため普段より兵力も少なく、忠親はその隙を突いた慶長5年9月20日、花巻城や周辺諸城を急襲した(花巻城の夜討ち)。一時は二ノ丸、三の丸を制圧し本丸に迫ったが、北信愛や柏山明助、救援に駆け付けた北信景らの奮戦により退けられた。伊達軍の支援を受け大迫城を攻めた旧稗貫家臣らの部隊は、南部氏の守将 田中藤四郎を倒して一時は城を制圧したが、戦況悪化に伴い城を放棄して逃げ出した。 北信景ら南部軍の追撃は凄まじく、一揆軍は諸館の戦いで敗北を重ねて拠点の二子城も奪還され、最終的には岩崎城に籠城して南部軍を迎え撃つ態勢となった。10月中旬には三戸で軍備を揃えた南部利直ら主力が花巻に到着。しかし冬が到来して積雪の厳しい時期になったため、戦いは中断され春の再開を待つこととなった。なお、この一揆の詳細は最上義光を通して徳川家康に報告された。
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