ゼネスト宣言
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1947年(昭和22年)1月1日、総理大臣吉田茂は年頭の辞で挨拶した。 政争の目的の為に徒に経済危機を絶叫し、ただに社会不安を増進せしめ、生産を阻害せんとするのみならず、経済再建のために挙国一致を破らんとするが如き者あるにおいては、私は我が国民の愛国心に訴えて、彼等の行動を排撃せざるを得ない。……然れども、かかる不逞の輩が我が国民中に多数ありとは信じない いわゆる「労働組合不逞の輩」発言である。 非難されたと受け取った労組は一斉に反発し、1月9日に全官公庁労組拡大共同闘争委員会(全官公庁共闘)がゼネラル・ストライキ実施を決定、1月11日に4万人が皇居前広場前広場で大会を開き、国鉄の伊井弥四郎共闘委員長が全官公庁のゼネスト実施を宣言した。1月15日には全国労働組合共同闘争委員会(全闘)が結成され、1月18日には、要求受け入れの期限は2月1日として、要求を容れない場合は無期限ストに入る旨を政府に通告した。実行された場合、鉄道、電信、電話、郵便、学校が全て停止されることになり、吉田政権はダメージを受けることは確実であった。また、吉田が進めた社会党右派の取り込みは、4名入閣でまとまりかけていたが、スト計画を進める左派の強硬な圧力によって流産した。公然と叫ばれるスト実施と政情不安によって、社会不安が蔓延した。1月21日には天変地異を予言していた神道系の宗教団体璽宇教(横綱双葉山が入信し話題となった)が、GHQの指令によって摘発された。 ゼネストへの動きが高まる中で、占領の実務を担任する第8軍司令官ロバート・アイケルバーガー中将は、鉄道のストにより日本各地に駐留する米軍への補給寸断・相互連絡の途絶が発生すれば、軍事的に重大な危機に陥ると判断、1月16日に参謀長C・バイヤース少将を通じ、GHQ経済科学局長ウィリアム・マーカット少将にゼネスト阻止を措置するよう要求した。 1月22日、伊井など組合幹部がマーカット少将と経済科学局労働課長エオドル・コーエンに呼び出され、ゼネストは許されないと忠告されたが、伊井は承諾しなかった。伊井はマッカーサーの命令と言い張る2人に対し、指令書の提示を要求したが、マッカーサーはマーカットに口頭で命じただけだった。米国大統領選挙に出馬する予定であったマッカーサーは、本国での労組の目線を考え、まだこのときは、日本の労組を自ら取り締まろうとはしなかった。 1月29日、中央労働委員会の会長代理末弘厳太郎が、現行556円から1800円への平均賃金引上げ要求に対し、18歳で最低賃金650円、平均で1000円にするという調停案を出したが、共産党の徳田書記長は1200円を要求し、他の共闘委員も同調したため、末弘も1200円で政府に勧告した。政府は調停案を受け入れるとしながらも、当分は平均984円とする条件をつけたため、共闘が受け入れを拒否して決裂した。 1月30日、マーカットは再び伊井を呼び、ゼネスト中止令を出すよう命令したが、伊井は組織の決定として拒否し、マッカーサーが直接命令するべきと言い返した。共闘もマッカーサーが動かないことに気がついていた。しかし、目論見は外れた。 1月31日午前8時、ゼネストが強行された場合に備え、第8軍は警戒態勢に入った。午後4時、マッカーサーは「衰弱した現在の日本では、ゼネストは公共の福祉に反するものだから、これを許さない」としてゼネストの中止を指令した。伊井委員長はGHQによって強制的に連行され、NHKラジオのマイクへ向かってスト中止の放送を要求された。午後9時15分に伊井は、マッカーサー指令によってゼネストを中止することを涙しながら発表した。 声がかれていてよく聞こえないかもしれないが、緊急しかも重要ですからよく聞いて下さい。私はいま、マッカーサー連合国軍最高司令官の命により、ラジオをもって親愛なる全国の官吏、公吏、教員の皆様に、明日のゼネスト中止をお伝えいたしますが、実に、実に断腸の想いで組合員諸君に語ることをご諒解願います。敗戦後の日本は連合国から多くの物的援助を受けていますことは、日本の労働者として感謝しています。命令では遺憾ながらやむを得ませぬ。……一歩後退、二歩前進。 そして放送の最後を「日本の労働者および農民万歳、我々は団結せねばならない」と伊井は締めくくった。翌2月1日には全官公庁共闘と全闘が解散し、伊井も占領政策に違反したとして占領目的阻害行為処罰令で逮捕され、懲役2年を宣告された。
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