北陸方面軍の一員
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 13:46 UTC 版)
天正2年(1574年)には柴田勝家の与力となり、越前一向一揆の鎮圧に従事した。この際の苛烈な一向一揆の弾圧については、小丸城から出土した瓦に刻まれた「前田又左衛門どのが捕らえた一向宗千人ばかりをはりつけ、釜茹でに処した」などの記録などによって伺うことができる。一揆から生き残り、まもなく行われた小丸城の普請に参加した人夫によるものと考えられており、1932年に小丸城二の丸から出土したものである(現在は武生越前の里郷土資料館所蔵)。 翌年には越前一向一揆は平定されたが、この際に佐々成政・不破光治とともに府中10万石を与えられ(三人相知で、3万3千石が個別に与えられたわけではない[要検証 – ノート])、「府中三人衆」と呼ばれるようになる。越前国平定後は、勝家与力として成政らと共に上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事するが、信長の命により摂津有岡城攻め(有岡城の戦い)、播磨三木城攻め(三木合戦)にも参加しており、信長の直参的役割は続いていたものと思われる[要出典]。
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