北陸方面政務官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 09:12 UTC 版)
天正8年(1580年)から長頼は能登・越中など北陸の政務を担当するようになった。 同年8月23日、能登の気多大社に羽咋郡内の土肥親真分を安堵したのが能登における長頼の政務の初見である。また、9月1日には長連龍に鹿島郡半郡を加増する旨の朱印状に副状を発し、10月13日には土肥親真に宛てて気多大社対して違乱の無いように命じ、また気多神社に対しても社頭の修理・建立に精を出すように促している。 天正9年(1581年)元旦、長頼自身は安土で馬場の造営を行いながらも、同日に家臣の岩越吉久を能登に派遣して、温井景隆・三宅長盛に早く安土へと出仕するように促させている。 同年3月28日、長頼は七尾城代として能登入りし、以後しばらく直接政務に当たった。また、上杉氏に対する外交担当も務めていたようで、同年4月28日に長頼は上杉景勝の重臣である須田満親・上条宜順・山崎秀仙に宛て佐々成政の不在中に小出城を攻撃した件について詰問し、上杉方の態度は裏表があると批判した。能登・越中国衆の鎮撫にもあたり、5月5日には上杉氏に内通した疑いがあった越中国人寺崎盛永の居城願海寺城を攻め落として盛永らを捕縛し、佐和山城に送還。6月27日には信長の命で七尾城に遊佐続光・遊佐盛光・伊丹孫三郎を呼び出し処刑した。 同年7月23日には長連龍の所領を安堵し、同月27日には気多神社の社領を安堵。そして、越中・能登の余分な城郭の破却を実施している。また、非常に多忙な身分であったので、この年8月から気多神社の担当政務官は家臣の岩越吉久に一任している。こうしてひと通りの鎮撫が済んだ能登は一職前田利家に与えられたが、10月2日付けの信長書状では府中三人衆の治めていた府中の跡職は長頼に継がせるので、来年には所務を渡すように命じ、また近日中に引継ぎのために越前に長頼が入る事を報じた。 このように北陸方面で政務に実績を残した長頼であったが、この間に北陸方面軍を統括する柴田勝家や越中の一職支配権を持っていた佐々成政らに了承などを仰いだことは一度として無く、信長から遣わされた「上使」として単独で政務を執行できるだけの強い権限を与えられていた事を伺わせる。
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