皇太子妃の選定
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1914年(大正4年)11月10日、大正天皇の即位式が京都御所で行われた。翌1915年(大正5年)11月には裕仁親王の立太子の礼が予定され、この頃から皇太子妃候補が噂され始めた。密かに有力候補に挙げられていたのは一条実輝公爵の三女・朝子であった。そのほか、久邇宮邦彦王の長女・良子女王、梨本宮守正王の長女・方子女王も有力視され、山階宮菊麿王の長女・安子女王、伏見宮博恭王の長女・恭子女王も名前を挙げられていた。 皇太子妃選定の経緯については諸説あるものの、確かな資料はほとんどない。ただし、福田清人によれば、貞明皇后が東宮御学問所御用掛として皇太子に倫理学を教えていた杉浦重剛を相談相手に、東宮御学問所の小笠原長生に命じて候補者の写真等を集めさせ選定したとされ、大野芳は、元老かつ内大臣であった松方正義が関与し、元首相・山本権兵衛と牧野伸顕が波多野敬直宮内大臣を使い、良子女王を推挙したとみている。そのほか片野真佐子は、昭憲皇太后が明治天皇の大葬の際に良子女王を見初めたという話を紹介している。 1917年(大正6年)11月、貞明皇后は学習院女学部の授業参観を名目に良子女王に会い、女王を一目で気に入る。それを知った波多野宮内大臣は、宮内省御用掛・三浦謹之助に久邇宮家の姉妹全員の身体検査を行わせた。良子女王は健康体と診断されたが、このとき色覚検査は行っていなかった。なお、母方の祖母の山崎寿満子が軽度の色覚異常で、良子女王の兄弟である朝融王と邦英王も軽度の色弱であったことから、久邇宮家では担当の角田隆医学博士に良子女王の色覚調査を行わせ、女王には色覚異常の因子はなく成婚に支障はないとの結論を得ていた。 1918年(大正7年)1月14日、波多野宮内大臣が第15師団長であった久邇宮邦彦王を豊橋の師団長宿舎に訪れ、良子女王が皇太子妃に予定されているとの御沙汰書を渡した。翌日波多野は沼津御用邸にいた皇太子にも報告。邦彦王夫妻は1月18日に天皇・皇后に御礼のため参内。同日の新聞に、婚約内定と、4月29日の皇太子誕生日に天皇の勅許が下りて正式発表されると報じられた。しかし実際には4月29日に発表は行われず、翌1919年(大正8年)6月10日にようやく婚約内定の御沙汰書が久邇宮家へ下り、記事が報道された。 婚約内定を受けて、1918年2月、良子女王は学習院を退学して結婚準備に入った。同年4月13日、麹町一番町の旧久邇宮邸に御花御殿と呼ばれる学問所を作り、東京女子高等師範学校教授の後閑菊野を教育主任に招聘し、お妃教育を始めた。5月には杉浦重剛も修身担当を委嘱された。 1919年(大正8年)6月に良子女王が母の邦彦王妃俔子と、貞明皇后にご機嫌伺いのため参内したときには、皇后は自分が皇太子妃に内定した際に昭憲皇太后から贈られたダイヤモンドの腕輪を良子女王に与えて、事実上婚約を認める姿勢をみせた。また同年、皇太子が久邇宮邸で良子女王と初対面している。
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