皇太子妃の選定とは? わかりやすく解説

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皇太子妃の選定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/13 02:29 UTC 版)

宮中某重大事件」の記事における「皇太子妃の選定」の解説

1914年大正4年11月10日大正天皇即位式京都御所行われた。翌1915年大正5年11月には裕仁親王の立太子の礼予定されこの頃から皇太子妃候補噂され始めた密かに有力候補挙げられていたのは一条実輝公爵三女朝子であったそのほか久邇宮邦彦王長女良子女王梨本宮守正王長女方子女王有力視され、山階宮菊麿王長女安子女王伏見宮博恭王長女恭子女王も名前を挙げられていた。 皇太子妃選定の経緯については諸説あるものの、確かな資料ほとんどない。ただし、福田清人によれば貞明皇后東宮御学問所御用掛として皇太子倫理学教えていた杉浦重剛相談相手に、東宮御学問所小笠原長生命じて候補者写真等を集めさせ選定したとされ、大野芳は、元老かつ内大臣であった松方正義関与し元首相山本権兵衛牧野伸顕波多野敬直宮内大臣使い良子女王推挙したとみている。そのほか片野真佐子は、昭憲皇太后明治天皇大葬の際に良子女王見初めたという話を紹介している。 1917年大正6年11月貞明皇后学習院女学部授業参観名目良子女王会い女王一目で気に入る。それを知った波多野宮内大臣は、宮内省御用掛・三浦謹之助久邇宮家姉妹全員身体検査を行わせた。良子女王健康体診断されたが、このとき色検査行っていなかった。なお、母方祖母山崎寿満子軽度色覚異常で、良子女王兄弟ある朝融王と邦英王軽度色弱であったことから、久邇宮家では担当角田隆医学博士良子女王色覚調査を行わせ、女王には色覚異常因子はなく成婚支障はないとの結論得ていた。 1918年大正7年1月14日波多野宮内大臣第15師団であった久邇宮邦彦王豊橋師団長宿舎訪れ良子女王皇太子妃予定されているとの御沙汰書渡した翌日波多野沼津御用邸にいた皇太子にも報告邦彦王夫妻1月18日天皇・皇后御礼のため参内同日新聞に、婚約内定と、4月29日皇太子誕生日天皇勅許下りて正式発表される報じられた。しかし実際に4月29日発表行われず、翌1919年大正8年6月10日にようやく婚約内定御沙汰書久邇宮家下り記事報道された。 婚約内定受けて1918年2月良子女王学習院退学して結婚準備入った同年4月13日麹町一番町の旧久邇宮邸に御花御殿呼ばれる学問所作り東京女子高等師範学校教授後閑菊野教育主任招聘し、お妃教育始めた5月には杉浦重剛修身担当委嘱された。 1919年大正8年6月良子女王が母の邦彦王妃俔子と、貞明皇后ご機嫌伺いのため参内しときには皇后自分皇太子妃内定した際に昭憲皇太后から贈られダイヤモンド腕輪良子女王与えて事実上婚約認め姿勢をみせた。また同年皇太子久邇宮邸で良子女王初対面している。

※この「皇太子妃の選定」の解説は、「宮中某重大事件」の解説の一部です。
「皇太子妃の選定」を含む「宮中某重大事件」の記事については、「宮中某重大事件」の概要を参照ください。

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