皇太子石宣の造反
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348年4月、石虎は石韜もまた寵愛していたので、石宣に代わって太子に立てようと考えた事もあったが、石宣の方が年長だったので実行しなかった。ある時、石宣は石虎に逆らうと、石虎は怒って「韜(石韜)を立てなかったのは失敗であった!」と言ってしまった。これを聞いた石韜は益々傲慢となり、太尉府(石韜は太尉)に堂を建てると宣光殿と名付け、敢えて石宣の名を用いて侮辱した。これに石宣は激怒し、遂に側近の楊柸・牟成・趙生と共に石韜暗殺を決断し、さらには喪に臨んだ石虎を殺害して国権を掌握しようと画策した。 8月、夜に石韜は東明観において側近と酒宴を催し、そのまま仏精舍にて宿泊した。石宣は楊柸らに命じて獼猴梯(細長い梯子)を掛けて宿舎に侵入させ、これにより石韜は殺害されてしまった。 夜が明けると、石宣はこの事件を上奏した。石虎は驚愕して卒倒し、しばらくしてから意識を取り戻した。その後、宮殿を出て喪に臨もうとしたが、司空李農はこれを諫めて「秦公(石韜)を害した者は未だ判明しておりません。もし賊がまだ京師(鄴)に居るのであれば、軽々しく出歩くべきではありません」と諫めたので、石虎は自ら喪事に臨むのを中止し、警戒を厳重にしてから太武殿において哀悼した。 石宣は素車に乗り込んで千人を従え、石韜の喪に臨んだものの、涙を流す事なく「呵呵」と言うのみであり、衾を開いてその屍を見ると、大笑いしてから去った。また、大将軍記室参軍鄭靖・尹武らを捕らえると、彼らに石韜殺害の罪を着せた。だが、石虎は石韜を殺したのは石宣ではないかと疑っており、彼を召し出して真偽を正そうとしたが、警戒して入ってこないのではと考え、母の杜珠が悲しみの余り危篤に陥ったと偽り、石宣を招聘した。石宣はこれに疑う事なく中宮に入ると、石虎はこれを抑留した。 史科という人物は石宣の謀略を知っていたので、石虎へ「韜(石韜)が死した夜、東宮長が楊柸の家に上がりました。その後、楊柸は夜に5人の男と共に外から帰ってきて『大事は既に定まった。後は、大家・老寿となる事を願うのみだ。我らが富貴とならない事は無い』と互いに言い合っており、話し終えると家の中へと入りました。この科の寝所が暗中であり、楊柸からは見えていなかったでしょうが、念のために科はこの後すぐに寝所を抜け出し、身を隠しました。すると、やがて楊柸は2人を伴って科を探しに出しましたが、見つからなかったので、楊柸は『宿客の1人が、我らの話を盗み聞いていた者が向こうにいると言っていた。これを殺して、口舌されるのを断たねばならん。今、逃げられてしまえば、大事となってしまう』と言っておりました。この科は土塀を越えてどうにか逃げ果せました」と、事の全てを報告した。これにより、石虎は楊柸・牟成を捕らえるよう命じたが、彼らは逃亡してしまった。ただ趙生を捕らえる事に成功し、彼を詰問したところ、すべて白状した。石虎の悲憤はいよいよ尋常ではなくなり、石宣は席庫に幽閉され、顎に穴を空けられて鉄環を着けられ、鎖に繋がれた。また、石虎は数斗の木槽を作らせると、羹飯を和えさせ、猪狗のように食させた。石虎は石韜が殺された刀箭を手に取ると、その血を舐めて泣き叫び、宮殿が震動するほどであった。仏図澄は「宣・韜はいずれも陛下の子です。今、韜の為に宣を殺そうとしておりますが、これは禍を重ねるだけです。陛下はもし慈恕の心で接するならば、福祚は長くなるでしょう。もしこれを誅するならば、宣は彗星となって鄴宮を一掃してしまうでしょう」と諫めたが、石虎は従わなかった。 鄴の北に柴を積んでその上に標を立て、標の末端には鹿盧を置いて穴を明けて縄を通させ、梯にも柴を積み上げた。そして石宣をその下に送ると、石韜の側近である宦官郝稚・劉覇に髪と舌を引き抜かせると、これを牽いて梯に昇らせた。郝稚は縄を石宣の顎に通し、鹿盧で絞り上げた。劉覇はその手足を切断し、眼を斬って腸を潰し、石韜と同じような状態にした。さらに、四面から柴に火を放つと、その煙炎は天にも届かくほどとなった。石虎は劉昭儀以下数千人と共に中台に昇ってこれを見物した。火が消えると、その遺灰を諸門の道中にばらまいた。彼の妻子9人もまた殺害される事となったが、石宣の末子はまだ数歳であり、石虎はかねてより可愛がっていた。その為、彼を抱きよせると憐れんで涙を流した。その子が「子にも罪はあるのでしょうか」と訴えたので、石虎はこれを赦そうと考えたが、大臣はこれを聞き入れず、抱えていた子を取り上げた。その子は石虎の衣を挽いて泣き叫んだが、帯は断ち切られて連行され、処刑された。これを見て涙を流さぬ者はおらず、石虎はこれにより発病してしまった。天王后杜珠は廃されて庶人に落とされ、彼の側近300人、宦官50人はみな車裂きの刑によりばらばらとなり、遺骸は漳水へ捨てられた。東宮は猪牛を養う場所として汚され、東官の衛士10万人余りは流罪が決まった。 これより以前、趙攬は石虎へ「宮中に将に変が起こります。これに備えられますよう」と告げていた。その為、石虎は趙攬が石宣の謀略を知っていながら黙っていたのではないかと疑い、趙攬もまた誅殺されてしまった。 貴嬪柳氏は尚書柳耆の娘であり、才色兼備であったので石虎から甚だ寵愛されていた。しかし、彼女の二兄は石宣と親しい間柄であったので、彼女もまた連座により殺された。その後、石虎はその姿色が忘れられず、再び柳耆の末娘を華林園に迎え入れた。
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