皇太子石宣の造反とは? わかりやすく解説

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皇太子石宣の造反

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)

石虎」の記事における「皇太子石宣の造反」の解説

348年4月石虎石韜もまた寵愛していたので、石宣に代わって太子立てよう考えた事もあったが、石宣の方が年長だったので実行しなかった。ある時、石宣石虎に逆らうと、石虎怒って「韜(石韜)を立てなかったのは失敗であった!」と言ってしまった。これを聞いた石韜益々傲慢となり、太尉府(石韜太尉)に堂を建てる宣光殿と名付け敢えて石宣の名を用いて侮辱した。これに石宣激怒し遂に側近の楊柸・牟成・趙生と共に石韜暗殺決断しさらには喪に臨んだ石虎殺害して国権掌握しようと画策した。 8月夜に石韜東明観において側近酒宴催しそのまま精舍にて宿泊した石宣は楊柸らに命じて獼猴細長い梯子)を掛けて宿舎侵入させ、これにより石韜殺害されてしまった。 夜が明けると、石宣はこの事件上奏した。石虎驚愕し卒倒ししばらくしてから意識取り戻したその後宮殿出て喪に臨もうとしたが、司空李農はこれを諫めて「秦公(石韜)を害した者は未だ判明しておりません。もし賊がまだ京師(鄴)に居るのであれば軽々しく出歩くべきではありません」と諫めたので、石虎は自ら喪事に臨むのを中止し警戒厳重にしてから太武殿において哀悼した。 石宣素車乗り込んで千人従え石韜の喪に臨んだものの、涙を流す事なく「呵呵と言うのみであり、衾を開いてその屍を見ると、大笑いしてから去ったまた、大将軍記室参軍鄭靖・尹武らを捕らえると、彼らに石韜殺害罪を着せた。だが、石虎石韜殺したのは石宣ではないか疑っており、彼を召し出して真偽正そうとしたが、警戒して入ってこないのではと考え、母の杜珠悲しみ余り危篤陥った偽り石宣招聘した。石宣はこれに疑う事なく中宮に入ると、石虎はこれを抑留した。 史科という人物石宣謀略知っていたので、石虎へ「韜(石韜)が死した夜、東宮長が楊柸の家に上がりましたその後、楊柸は夜に5人の男と共に外から帰ってきて『大事は既に定まった。後は、大家老寿となる事を願うのみだ。我ら富貴とならない事は無い』と互いに言い合っており、話し終えると家の中へと入りました。この科の寝所暗中であり、楊柸からは見えていなかったでしょうが、念のために科はこの後すぐに寝所抜け出し身を隠しました。すると、やがて楊柸は2人伴って科を探し出しましたが、見つからなかったので、楊柸は『宿客の1人が、我らの話を盗み聞いていた者が向こうにいると言っていた。これを殺して口舌されるのを断たねばならん。今、逃げられしまえば、大事となってしまう』と言っておりました。この科は土塀越えてどうにか逃げ果せました」と、事の全て報告した。これにより、石虎は楊柸・牟成を捕らえるよう命じたが、彼らは逃亡してしまった。ただ趙生を捕らえる事に成功し、彼を詰問したところ、すべて白状した石虎悲憤はいよいよ尋常ではなくなり、石宣は席庫に幽閉され、顎に穴を空けられ鉄環着けられ、鎖に繋がれた。また、石虎は数斗の木作らせると、羹飯を和えさせ、のように食させた。石虎石韜殺された刀箭を手に取ると、その血を舐めて泣き叫び宮殿震動するほどであった仏図澄は「宣・韜はいずれ陛下の子です。今、韜の為に宣を殺そうとしておりますが、これは禍を重ねるだけです。陛下はもし慈恕の心で接するならば、福祚長くなるでしょう。もしこれを誅するならば、宣は彗星となって鄴宮を一掃してしまうでしょう」と諫めたが、石虎は従わなかった。 鄴の北に積んでその上に標を立て、標の末端には鹿盧を置いて穴を明けて縄を通させ、にも積み上げた。そして石宣をその下に送ると、石韜側近である宦官郝稚・劉覇に髪と舌を引き抜かせると、これを牽いてに昇らせた。郝稚は縄を石宣の顎に通し、鹿盧で絞り上げた。劉覇はその手足を切断し、眼を斬って腸を潰し石韜同じような状態にした。さらに、四面から火を放つと、その煙炎は天にも届かくほどとなった石虎劉昭儀以下数千と共に中台に昇ってこれを見物した火が消えると、その遺灰諸門道中ばらまいた彼の妻子9人もまた殺害される事となったが、石宣末子はまだ数歳であり、石虎かねてより可愛がっていた。その為、彼を抱きよせると憐れんで涙を流したその子が「子にも罪はあるのでしょうか」と訴えたので、石虎はこれを赦そうと考えたが、大臣はこれを聞き入れず抱えていた子を取り上げたその子石虎の衣を挽いて泣き叫んだが、帯は断ち切られ連行され処刑された。これを見て涙を流さぬ者はおらず石虎はこれにより発病してしまった。天王杜珠廃され庶人落とされ彼の側近300人、宦官50人はみな車裂きの刑によりばらばらとなり、遺骸漳水捨てられた。東宮牛を養う場所として汚され、東官の衛士10万余り流罪決まった。 これより以前趙攬石虎へ「宮中将に変が起こります。これに備えられますよう」と告げていた。その為、石虎趙攬石宣謀略知っていながら黙っていたのではないか疑い趙攬もまた誅殺されてしまった。 貴嬪氏は尚書耆の娘であり、才色兼備であったので石虎から甚だ寵愛されていた。しかし、彼女の二兄は石宣親し間柄であったので、彼女もまた連座により殺された。その後石虎はその姿色忘れられず、再び耆の末娘林園迎え入れた

※この「皇太子石宣の造反」の解説は、「石虎」の解説の一部です。
「皇太子石宣の造反」を含む「石虎」の記事については、「石虎」の概要を参照ください。

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