皇太子選
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:52 UTC 版)
幼少時は、後醍醐天皇側近「後の三房」の一人で学識深い吉田定房に養育された。嘉暦元年(1326年)に元服し、中務卿に任じられ、二品に叙された。 同年、大覚寺統正嫡で従兄弟に当たる皇太子邦良親王が急逝。現任の天皇の第一皇子として、次の皇太子の有力候補と目され、同じ大覚寺統の邦省親王(邦良の同母弟)・恒明親王(後醍醐祖父である亀山天皇の愛息)、および持明院統の量仁親王(のちの光厳天皇)と共に選挙戦に出馬した。しかしこの政争に敗北し、最終的に選ばれたのは量仁だった。 その後は、より高貴な生母を持ち、聡明さにおいても優り、さらに恒明派からの支援も得た異母弟の世良親王の方が後醍醐の後継者と目されるようになった。 とはいえ、これで父子の仲が特に悪くなった訳ではなく、引き続き朝廷の有力政治家として活躍した。元徳3年(1331年)1月には一品に叙任された。そのため、一品中務卿親王と称された。
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