皇太子との対立
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「ランドルフ・チャーチル (1849-1895)」の記事における「皇太子との対立」の解説
1876年、長兄ブランドフォード侯爵ジョージが皇太子アルバート・エドワード(愛称バーティ、後の英国王エドワード7世)の愛人だったエイルズフォード伯爵(英語版)夫人と愛人関係になった。この時期バーティやエイルズフォード伯爵は英領インドを訪問しており、イギリスを不在にしていた。そのためインドから戻ったバーティとエイルズフォード伯爵はこれに驚き、ブランドフォード侯爵を批判し、エイルズフォード伯爵夫人と愛人関係を続けるつもりなら妻アルバーサ(英語版)とは離婚するべきだと主張した。 皇太子バーティがエイルズフォード伯爵夫人に送ったラブレターを手に入れたブランドフォード侯爵はこれを弟ランドルフ卿に見せた。激昂したランドルフは「殿下のほうがエイルズフォード伯爵夫人を良く知っておられるようではないか」「もしエイルズフォード伯爵が離婚訴訟を起こしたら、こちらはこの手紙を公表する。そうなったらもはや殿下は王位を継ぐことはできないだろう」といって皇太子を脅迫した。 怒った皇太子はランドルフにフランスでの決闘を申し込んだ。皇太子は射撃の名手であり、もし本当に決闘になったらランドルフに勝ち目はなかった。ランドルフは「将来国王になられる方に剣を向けるわけにはまいりません」とかわした。しかしやがてヴィクトリア女王からも睨まれるようになり、マールバラ公爵家はますます貴族社会から除者にされていった。立場が危うくなったランドルフ卿は岳父を頼って一時ニューヨークへ逃れた。 その後、ランドルフの向う見ずさを気にいった首相・保守党党首ベンジャミン・ディズレーリが皇太子をなだめてくれたおかげで、ランドルフ卿はイギリスへ帰国できた。
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皇太子との対立
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299年、賈謐は東宮で皇太子司馬遹への学問の講義をするようになったが、賈謐は以前からしばしば司馬遹へ無礼を働いており、司馬遹はこれを喜ばなかった。司馬遹と囲碁の対局を行う時はいつも指し手の事で言い争い、一切遠慮が無かった。ある時恵帝の弟である成都王司馬穎がこれに同席した際、賈謐の振る舞いを見て「皇太子は国の儲君であるのに、賈謐はなんと無礼なのか」と血相を変えて叱りつけた。賈謐はこれを恐れ、また不満を抱いたので賈南風へこの事を相談した。これにより、司馬穎を平北将軍に任じ、鄴城の鎮守を命じて朝廷から追い出した。 また名族である王氏の出身である王衍の長女の王景風は美麗であり、司馬遹は長女との結婚を望んだが、賈謐が長女を娶ったのでやむなく王衍の次女の王恵風を妻とした。これにより、司馬遹は賈謐への不満をさらに積もらせた。一方で司馬遹もまた強情であり、賈謐との関係を改善しようと思わず、逆に賈謐が東宮に来ると後庭に隠れて避けるようになった。詹事裴権は「賈謐は皇后の近くにおり、溝が深まると危険かと」と諫言したが、改めなかった。そのため、賈謐は賈南風の前で司馬遹を讒言し「太子は私財を用いて小人と結んでおり、恐らく賈氏に対抗するためかと思われます。もし皇帝が崩御されたら、楊氏の時のように臣らは謀殺され、皇后は金墉に監禁されることになります。今のうちに手を打ち、恭順な者を跡継ぎに入れ替えるべきです」と述べると、賈南風はこれに同意し、司馬遹の欠点を周囲の前で公表した。 12月、賈南風は司馬遹を入朝させ、恵帝の命と称して三升の酒を飲ませて酩酊状態に陥らせた上で、自身が帝位の簒奪を狙っているという旨の文章を紙に書き写させ、これを恵帝へと提出した。これを読んだ恵帝は司馬遹に死を下賜すると宣言したが、賈南風の腹心の張華らがこれに頑なに反対したので、賈南風は妥協して司馬遹を庶人に落とす事に決め、金墉城に監禁した。この時の護送の際、恵帝は司馬遹の見送りを禁じたが、江統・潘滔を始め多くの宮臣が伊水まで出向いて司馬遹を見送ったので、彼らは逮捕されて河南獄と洛陽獄に入れられた。しかし都官従事の孫琰は「宮臣が罪を恐れず太子に別れを告げましたが、それに重刑を用いてしまえば、天下に太子の徳を宣伝することにつながります。ここは寛大な処置をすべきかと」と進言したので、賈謐はこれに従い、洛湯県令曹攄に釈放を命じた。河南獄に入れられた者達は河南尹楽広によって既に釈放されていたが、勝手に囚人を釈放した楽広も罪に問わなかった。
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