十月革命による権力掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:58 UTC 版)
「ウラジーミル・レーニン」の記事における「十月革命による権力掌握」の解説
レーニンがフィンランドに居た1917年8月、ロシア共和国軍の最高総司令官ラーヴル・コルニーロフが軍事クーデターを試み、首都ペトログラードに向け指揮下の部隊を進軍させた。ロシア臨時政府の首相アレクサンドル・ケレンスキーは(ボリシェヴィキを含む)ペトログラード・ソビエトに支援を要請し、首都防衛のためボリシェヴィキが労働者を武装し「赤衛隊(英語版)」として組織することを容認した。コルニーロフの反乱はペトログラードに到達する前に鎮圧されたが、一連の出来事はボリシェヴィキを政治の表舞台へと復帰させた。また、社会主義を敵視する右派による反革命の動きを恐れたメンシェヴィキと社会革命党が臨時政府に圧力をかけ、ボリシェヴィキとの関係を正常化させた。その後、臨時政府が逮捕されていた党幹部の釈放に応じたため、ボリシェヴィキの党勢を急速に挽回することが出来た。メンシェヴィキと社会革命党は人気のない戦争を継続するロシア臨時政府との協力関係によって大衆からの支持を失っており、ボリシェヴィキはそれに乗じて支持を拡大し、やがてボリシェヴィキ派のマルクス主義者レフ・トロツキーがペトログラード・ソビエトの議長に選出された。9月、ボリシェヴィキはペトログラードとモスクワの労働ソビエトで過半数の支持を獲得した。 1917年10月、レーニンはペトログラードへと戻った。ペトログラードとモスクワの両都市で多数派を占めることに成功したことを受け、レーニンは武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキ内で主張し、反対するジノヴィエフとカーメネフを批判した。また、トロツキーがソビエト大会にあわせた蜂起を主張したことについても、絶好のチャンスを逃してしまうことを恐れ、ボリシェヴィキ単独での即時蜂起を主張した。10月11日の夜明け前、ボリシェヴィキ中央委員会で投票が行われ、10対2でレーニンが主張する武装蜂起の決行が採択された。ボリシェヴィキは武装蜂起の計画に着手し、10月24日にはペトログラードのスモーリヌイ学院(英語版)で会議を開き、最終的な打ち合わせを行った。スモーリヌイ学院はボリシェヴィキに忠実な軍事機関である「軍事革命委員会(英語版)」の本拠として使われていた。 10月24日夜、軍事革命委員会は指揮下の兵と赤衛隊に命令を出し、ペトログラード市内の主な輸送機関、通信機関、印刷機関、公共公益設備を制圧するよう指示した。ボリシェヴィキの軍勢は無血で目標を達成することに成功し、続いて臨時政府の置かれている冬宮殿を包囲した。ボリシェヴィキ派の水兵が乗る巡洋艦「アヴローラ」が宮殿への砲撃を実行した後、冬宮は制圧され、臨時政府の閣僚は逮捕された。この武装蜂起の最中、レーニンはペトログラード・ソビエトに向けて演説を行い、ロシア臨時政府は打倒されたと宣言した。
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