十月革命と憲法制定会議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 11:34 UTC 版)
「立憲民主党 (ロシア)」の記事における「十月革命と憲法制定会議」の解説
同年10月14日から16日にかけて第10回党大会が開かれた。カデットの最後の党大会となったこの大会は、翌月に行われる予定の憲法制定会議選挙の準備を目的としたものであった。しかし、臨時政府の政策が不調であることや、党のコルニーロフ反乱への加担などにより、カデットは社会的な信頼を失っており、党大会は険悪な雰囲気の下で行われた。党指導部と中堅若手層の対立や党中央と地方支部の関係悪化などにより党の組織力は低下し、憲法制定会議選挙の候補も定員の10分の1未満しか擁立できる見込みはなく、選挙での勝利は絶望的となっていた。 こうしたなか、ボリシェビキが武装蜂起すると、逃亡したケレンスキーに代わってコノヴァーロフが首相代行となり冬宮に立てこもったが、あえなく逮捕された。ボリシェビキ政権が誕生し、カデットは政権与党としての立場を失った。 11月に行われた憲法制定会議選挙では、ボリシェビキを「暴力の行使者、権力の横奪者、殺人者」「暴力により権力をにぎり、ロシア人民の名で語ろうとする者」であるとして非難する選挙運動を行った。しかし、カデットは5パーセント程度の得票率に留まっている。とはいえ、都市部では根強い支持があり、ペトログラードやモスクワでは3割前後の票を得て第2位となっていた。また、新聞の支持なども受け依然として一定の組織力・資金力を有していた。 こうした状況下において、ボリシェヴィキはカデットを警戒し、すでに同月4日時点で、全ロシア中央執行委員会(ロシア語版、英語版)において、ボリシェヴィキの指導者ウラジーミル・レーニンはカデットを「反ソビエト勢力」とみなし、その政治活動を禁止すべきだという演説をしていた。同月28日、カデットの指導者たちの一部が「人民の敵の党」の指導者として逮捕され、ココシキンとシンガリョフは殺害された。 憲法制定会議は強制的に解散させられ、さらに1918年から1919年にかけてペトログラードやモスクワで多くのカデットの党員が逮捕された上、党中央委員かつ元モスクワ副市長のシチェプキンらが銃殺されている。
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