十月革命までの軌跡
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:06 UTC 版)
「フェリックス・ジェルジンスキー」の記事における「十月革命までの軌跡」の解説
1895年に生涯を革命に捧げる道を選ぶ決意を固め、革命運動に参加するために爵位を継承せずに実家を離れてロシア労働者同盟に参加した。1897年に20歳のジェルジンスキーは労働運動を指導したとして逮捕され、シベリア流刑の処分を受けた。警察は容疑者についての資料の中で「この青年は信念のために必要と判断すれば、どんな行為でも行いかねない」と報告した。1898年に流刑先のシベリアから脱出するとリトアニア社会民主党の創設に参加して、党幹部に名を連ねた。翌年12月に故郷ポーランドの社会民主党と同党の合流を指導し、ポーランド・リトアニア社会民主党を結党した。 続く1900年にはドイツを訪問、ローザ・ルクセンブルクと面会して親睦を結ぶなど各国の共産主義運動の連帯に奔走したが、スイス人で婚約を予定していた女性が結核を煩ったために一旦政治活動から離れた。1904年6月4日に看病の甲斐なく婚約者は亡くなり、ジェルジンスキーは実家の姉に「貴族の道を捨てて選んだ道は無意味だった」と手紙を書き送るなど、かなり精神的なショックを受けていたと言われる。 1905年7月に革命運動に復帰するとワルシャワ近郊で党大会を招集、直後に秘密警察に逮捕されシベリアへ再度流刑される。だがロシア第一革命勃発にともなう十月宣言により自由の身となり、革命運動に合流した。程なく革命勢力は再び追われる身になり、ジェルジンスキーも各地を逃亡しながらの生活を送った。その中で同志だったソフィア・ジェルジンスカヤと結婚し長男を授かっている。何度も逮捕の危険に晒されつつも辛うじて掻い潜りながら党への指導を続けた。 今やジェルジンスキーはポーランド系勢力最大の指導者となっていたが、それだけに秘密警察の追跡も執拗に続けられた。そして遂に1911年頃に拘束され、皇帝の名を冠したポーランド地方の政治刑務所に収監された。それから数年にわたって厳しい強制労働と、顎に深い傷跡を残す程の拷問を受けた。第一次世界大戦でドイツ軍が東欧に攻め入ってくると囚人達はロシア国内へ移送された。ジェルジンスキーにとって最大の受難の時であったが、大戦中の1917年に二月革命が勃発して皇帝権が倒されると漸く解放された。傷を癒した後、ジェルジンスキーは直ちにロシア革命に対して何らかの行動を取ることを決めばならなかった。
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