十月革命以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 03:22 UTC 版)
ソビエトは十月革命により国家機関となったが、レーニンが構想した通りのコミューン型国家は実現されず、むしろそこから急速に離れていった。 政府機関として、ソヴィエトとは別に人民委員会議が設立され、レーニンが議長に就任した。ボリシェヴィキ党内で反対意見があったにもかかわらず、この制度はそのまま恒常化し、1918年の憲法にも書き込まれた。人民委員会議は「全体として全ロシア・ソビエト大会および全ロシア・ソビエト中央執行委員会にたいして責任を負う」と規定された(第46条)。ソヴィエトは人民委員会議を権威づけるだけの存在になっていった。 ソビエトの全ロシア中央執行委員会は、1918年6月14日、社会革命党とメンシェヴィキをソビエトから追放する布告を出した。つづく7月には左翼社会革命党がボリシェヴィキ政権に対して反乱を起こした。ソビエトにはボリシェヴィキだけが残り、その結果、政策決定はボリシェヴィキ党内で完結するようになっていった。
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