世界大戦とロシア革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 18:07 UTC 版)
「パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の記事における「世界大戦とロシア革命」の解説
1914年まで、「ドヴィナー」では同じような年が続いた。「ドヴィナー」は平時の任務に就いており、初年生の水兵を乗せて平和な航海が続けられた。元の設計者の N・Ye・チトーフと P・Ye・アンドルーシチェンコは自分たちの仕事をこなし、「ドヴィナー」は練習分遣隊の中で最も古い艦として現役を続行した。 世界大戦が開戦すると、「ドヴィナー」の生活にも若干の変化が生じた。1915年秋には、「ドヴィナー」には思いもしなかった新しい任務が与えられた。このときから、「ドヴィナー」はバルト海に展開していたイギリス海軍(英語版)の潜水艦のための潜水母艦となったのである。 これは、イギリス海軍が派遣する潜水艦の艦隊数が増えたことに起因していた。ロシア帝国海軍の練習船がその母艦として提供されていたが、「ドヴィナー」以前に提供されていた「ルィーンダ」は元コルベットであり、手狭であった。そこで、大型船の「ドヴィナー」が新しい母艦として選ばれたのである。 この頃、「ドヴィナー」は事実上武装解除された状態であった。その艦上に設置された武装は、旧式化した 47 mm 砲 6 門だけであった。石炭貯蔵庫の容量も、680 t にまで削減された。撤去された装備品や機関、石炭庫には、イギリス潜水艦のための必要物資の貯蔵庫に割り当てられた。潜水艦用の魚雷も 60 本収納された。ロシア帝国とイギリスが1915年8月にドイツ帝国海軍の大洋艦隊によるリガ湾侵入を阻んだ際には、まさにこれらの魚雷とロシアの機雷が活躍したのである。船内空間のうちかなりの部分が、潜水艦乗員やロシア側の勤務員のための居住区に当てられた。 1917年春、革命派に占拠されている練習船「パーミャチ・アゾーヴァ」。 1917年春、革命派に占拠されている練習船「パーミャチ・アゾーヴァ」。 1917年の二月革命ののち、練習船「ドヴィナー」はロシア臨時政府の管轄下に入った。しかし、その実は臨時政府に忠誠心の薄い急進派の水兵に実権を握られていた。彼ら「革命的大衆」の圧力によって海軍省は同年3月31日付けで「革命運動がために奪われた艦船名の回復について」の指令を出した。これにより、「ドヴィナー」は「パーミャチ・アゾーヴァ」に戻った。ロシア革命によってそれまでの同盟国との関係は急速に悪化した。ロシア海軍も崩壊の一途を辿り、規律も乱れていった。 ボリシェヴィキによって引き起こされた十月革命による打撃は、海軍にとって決定的であった。十月革命以後、艦は名実ともに急進派の管轄下に置かれることになった。1918年に結ばれたブレスト=リトフスク条約によりロシア・ソビエト共和国の戦線離脱が決定されると、それまでロシア共和国と同盟してバルト海で活動していたイギリス海軍の潜水艦は自爆し、乗員は帰国の途に就いた。 1918年春には、「パーミャチ・アゾーヴァ」はバルト艦隊の主要基地であるゲリシンクフォールスにあった。1918年初頭からこの地はボリシェヴィキ系のフィンランド社会主義労働者共和国の領土となっていたが、4月になると攻勢を強めたフィンランド市民警備隊(フィンランド語版)やドイツ帝国・東海師団(ドイツ語版)によって占領された。このため、労農赤色海軍の艦船は順次ロシア本国への脱出を開始した。その中、老朽化した「パーミャチ・アゾーヴァ」は燃料も必要人員の大半も欠いたまま共和国海軍上級海軍長官のフィンランド海域における司令部としてゲリシンクフォールスに残された。そして、「パーミャチ・アゾーヴァ」が参謀長とともにこの地を去るのは同年5月28日のことであった。「パーミャチ・アゾーヴァ」は最後のソビエト艦船分遣隊に加わり、ゲリシンクフォールスからクロンシュタットへ移動した。そして、その地においてイギリスの反革命干渉軍(ロシア語版)に対抗する労農赤色海軍潜水艦の母艦として使用された
※この「世界大戦とロシア革命」の解説は、「パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の解説の一部です。
「世界大戦とロシア革命」を含む「パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の記事については、「パーミャチ・アゾーヴァ (装甲巡洋艦)」の概要を参照ください。
- 世界大戦とロシア革命のページへのリンク