世界大戦と日本との接触
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 06:38 UTC 版)
「日本とマダガスカルの関係」の記事における「世界大戦と日本との接触」の解説
第一次世界大戦では、マダガスカルはフランスの植民地であったためマダガスカル出身者がフランス軍兵士として参加。その時期には遠く離れた日本における明治維新や日露戦争などの情報がマダガスカルにも伝わっており、これに触発されて民族主義運動が高まっている。大戦中の1915年には抗仏秘密結社ヴィ・ヴァトゥ・サケリカが摘発され、この事件はフランスを震撼させてさらなる独立運動の抑止へと植民地政府を駆り立てる事になった。なお、日露戦争当時のアンツィラナナ(当時ディエゴ・スアレス)には赤崎伝三郎という日本人が酒場店主として居住しており、彼は1904年12月29日に同港に入港するロシア帝国バルチック艦隊を目撃。戦艦の種類や数、燃料、水、食糧などの量を密かに調査して在ボンベイ大日本帝国領事館に電報で伝え、日本がバルチック艦隊の動静や規模を把握する一助となっている。 続く第二次世界大戦では、1940年という比較的早い時期に宗主国フランスがナチス・ドイツに占領される。これはマダガスカルの植民地政府の威信に曇りをもたらす出来事であり、1947年に起きた反フランス植民地支配抵抗運動の遠因ともなった。占領後、マダガスカルはヴィシー政府側について連合国と対立。さらに、1941年にイギリス軍と開戦した大日本帝国軍はセイロン沖海戦などを経て瞬く間にインド洋からイギリス勢力を放逐してインド洋の制海権を奪取した。 日本にインド洋の制海権を握られたイギリスを中心とする連合国は、日本がマダガスカルを無血占領してアフリカへ勢力圏を広げる事を危惧した。そのため、1942年に重要港アンツィラナナ(当時ディアゴ・スアレス)をはじめとしたマダガスカル全土に攻勢をかけ、マダガスカルの戦いが始まった。この戦いは、当初はイギリス海軍とマダガスカルに駐屯するヴィシー・フランス軍との戦闘だったものの、同年五月にヴィシー政府の要請を受けて日本海軍の特殊潜航艇がアンツィラナナでイギリスと戦闘を開始。日本が本格的にマダガスカルの戦いに参戦した。戦闘はほぼ海上で行われたが、地上戦も行われた。海戦に参加していた潜水艦・伊20は座礁し、艇長の秋枝三郎大尉(海兵66期)と艇付の竹本正巳一等兵曹の2名は艇を放棄。マダガスカル島のアンタラブイ近くに地元の漁師の手助けを得つつ上陸して、母船との合流地点に戻る途中で15人のイギリス人部隊と軍刀と拳銃のみで戦闘の末、戦死している。なお、二人の遺体はイギリス軍によってアンツィラナナに埋葬された。 その後、イギリスはマダガスカルのほぼ全土を占領。日本はインド洋の制海権を奪取するという最大の目標を既に達成し、またマダガスカルは主戦場である太平洋などから遠く離れていたため、これ以降目立った軍事行動は行われずに日本はマダガスカルから撤退した。 これが、日本とマダガスカルのほぼ最初の交流であった。
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