世界大戦と国家社会主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 03:23 UTC 版)
「クヴァーケンブリュック」の記事における「世界大戦と国家社会主義」の解説
第一次世界大戦では、クヴァーケンブリュック出身の兵士が168人死亡した。1930年、シュッツェンホーフアレーに彼らの栄誉林が設けられた。このほかの記念の場所としては、ショルレマー=リーザー男爵クレメンスが1916年5月29日にクヴァーケンブリュック市に寄贈した「鉄の城兵」や寄附金で建立された「ナーゲルング」がある。クヴァーケンブリュック市庁舎の議会場ロビーに設置されたこの像はフランスのポプラ材で創られており、鎖帷子を身につけ、盾と剣を持つ13世紀から14世紀の城兵の姿である。この像はショルレマー大隊の2人の兵士を象っている。 「黄金の20年代」に本市は一時的に経済の立て直しがなされた。経済危機のピークとなった1932年にこの小康状態は過去のものとなった。この年、220人の失業者が発生し、営業税は2年間で60,000ライヒスマルクから16,000ライヒスマルクにまで減少した。1932年11月6日の国会議員選挙で NSDAP は 650票を獲得し、1933年3月5日の国会議員選挙では得票率 36.4 % にあたる1,019票を獲得した。この得票率は、ドイツ全体の得票率 43.9 % よりもかなり低いが、ナチスはクヴァーケンブリュックでも最も大きな力を持った政党となった。この結果と、1933年から採られた国家社会主義的環境の強化によって、クヴァーケンブリュックでも夏までにナチスによる権力掌握がなされた。特に「メルツゲファレーネ」には住民の多くがNSDAPやその下部組織に入会した。その際に有用であったのは、保守的でカトリック環境下にあったエリート階級の一部をNSDAP地方グループのトップに就けたり、新しい帝国宰相に有利になるような形で公的に忠誠心の表明をさせたりすることであった。これらは、「経済活性化」のための国家投資によって実施された。それはあたかもイギリスの経済学者ケインズ(英語版)が提唱する経済政策を実地応用したようであった。クヴァーケンブリュックにとって重要であったのは、1928年にアルトラント航空協会によって後のノイシュタットにあたるメルシュラント(1993年まで公式にはメルシュラント地区と呼ばれていた)に設けられた飛行場が、ナチスの権力掌握後1933年に再軍備に伴って拡張されたことであった。同じ年に航空中隊がクヴァーケンブリュックに配備されることになった。1935年に飛行場の拡張工事が始まり、「クヴァドラート」という偽名で呼ばれた。1940年から戦闘飛行団が駐留した。この戦闘飛行隊はハインケル He111 爆撃機やユンカー Ju 88 爆撃機、戦争後期には連合国軍の爆撃機に対する防衛として戦闘機部隊が配備された。 特に重要なのはクヴァーケンブリュックが、損傷した動力機械を修復する大きな飛行機修理工場を得たことであった。1943年初めに修理工場の大部分は南フランスに移転した。その後連合国軍はこの飛行基地を察知し、再三にわたって空爆目標とした。1944年の聖土曜日に行われた最も激しい攻撃によって内市街も被害を受け、数多くの建物が損傷または全壊した。終戦直前に飛行基地の航空機は撤退した。1945年4月11日にイギリス軍がこの飛行場を占領し、クヴァーケンブリュックにおける第二次世界大戦は終了した。イギリス軍はこの基地をポーランド軍に委託した。ポーランド軍は1947年まで駐留した。 1933年6月時点でクヴァーケンブリュックには 46人ユダヤ系住民がいた。その後生まれた人や移住してきた人を含めると、国家社会主義の時代にクヴァーケンブリュックに住んでいたユダヤ人は約 60人と推測される。1935年から反ユダヤ的事件が増加する。1935年8月、市営プールに「ユダヤ人お断り」の看板が立てられた。オスナブリュック行政区長官の命令によって、公務員がユダヤ人の家に住むことは禁止された。1936年初め、クヴァーケンブリュックの役所に勤める公務員や従業員がユダヤ人の商店で買い物をすることが禁じられた。1938年11月10日、クロッペンブルクのSA大佐はクヴァーケンブリュックの突撃隊少佐にシナゴーグに放火し、ユダヤ人全員を逮捕するよう命令を下した。5人のクヴァーケンブリュックのユダヤ人がSAに逮捕されたが、オランダ人の家畜商ラザルス・コーンは釈放された。55歳以上は釈放せよという郡役場の命令は実行されなかった。保護拘禁が繰り返され、他の3人とともにブーヘンヴァルト強制収容所に送致された。宗教指導者のエルンスト・ベールはここで(公的な記録によれば)「心不全」発作のために死亡した。他の3人は12月または1月に命令により「間近に迫った移送に煩わされる」ことを免れた。 1939年5月23日、クヴァーケンブリュックにはユダヤ人世帯主がいなくなった。しかし1939年5月17日の住民調査では本市には10人のユダヤ人が登録されており、いずれもハーゼ通り6番地の家に住んでいた。1941年3月12日、市当局は、クヴァーケンブリュックは「ユダヤ人フリー」であると宣言した。 第二次世界大戦後、クヴァーケンブリュックで「水晶の夜」を煽動した6人が裁判に掛けられた。被告人の1人は無罪、5人は2年2ヶ月の自由刑とされた。 戦後、3人のクヴァーケンブリュックのユダヤ人が故郷の街に戻ってきた。シナゴーグがあった場所には1983年に記念板が設けられた。
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