十月革命の勃発とソヴィエト権力の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 07:19 UTC 版)
「ロシア革命」の記事における「十月革命の勃発とソヴィエト権力の成立」の解説
詳細は「十月革命」を参照 ソヴィエト内部ではコルニーロフの反乱以後ボリシェヴィキへの支持が急速に高まった。8月末から9月にかけ、ペトログラードとモスクワのソヴィエトでボリシェヴィキ提出の決議が採択され、ボリシェヴィキ中心の執行部が選出された。これを受け、レーニンは武装蜂起による権力奪取をボリシェヴィキの中央委員会に提起した。中央委員会は10月10日に武装蜂起の方針を決定し、10月16日の拡大中央委員会会議でも再確認した。 一方、ペトログラード・ソヴィエトは10月12日に軍事革命委員会を設置した。これは元々はペトログラードの防衛を目的としてメンシェヴィキが提案したものだったが、武装蜂起のための機関を必要としていたボリシェヴィキは賛成した。トロツキーは「われわれは、権力奪取のための司令部を準備している、と言われている。われわれはこのことを隠しはしない」と演説し、あからさまに武装蜂起の方針を認めた。メンシェヴィキは軍事革命委員会への参加を拒否し、委員会の構成メンバーはボリシェヴィキ48名、社会革命党左派14名、アナーキスト4名となった。 前後して軍の各部隊が次々にペトログラード・ソヴィエトに対する支持を表明し、臨時政府ではなくソヴィエトの指示に従うことを決めた。10月24日、臨時政府は最後の反撃を試み、忠実な部隊によってボリシェヴィキの新聞『ラボーチー・プーチ』『ソルダート』の印刷所を占拠したが、軍事革命委員会はこれを引き金として武力行動を開始。ペトログラードの要所を制圧し、10月25日に「臨時政府は打倒された。国家権力は、ペトログラード労兵ソヴィエトの機関であり、ペトログラードのプロレタリアートと守備軍の先頭に立っている、軍事革命委員会に移った」と宣言した。その後、26日未明に冬宮を占領し、ケレンスキー以外の閣僚を逮捕した。ケレンスキーは臨時政府に忠実な部隊を探すために冬宮から脱出して前線へ向かっていた。 蜂起と並行して第二回全国労働者・兵士代表ソヴィエト大会が開かれた。この大会においては社会革命党右派やメンシェヴィキが蜂起に反対し退席していたため、残った社会革命党中央派・左派に対してボリシェヴィキは多数派を占めていた。冬宮占領を待ち、大会は権力のソヴィエトへの移行を宣言した。さらに27日、大会は全交戦国に無併合・無賠償の講和を提案する「平和に関する布告」、地主からの土地の没収を宣言する「土地に関する布告」を採択し、新しい政府としてレーニンを議長とする「人民委員会議」(ソヴナルコム、臨時労農政府)を設立した。 冬宮から逃亡したケレンスキーは、プスコフで騎兵第三軍団長クラスノフの協力をとりつけ、その軍によって10月27日にペトログラードへの反攻を開始した。ペトログラード市内でも社会革命党やメンシェヴィキを中心に「祖国と革命救済委員会」がつくられ、10月29日に士官学校生らが反乱を開始した。しかし反乱はその日のうちに鎮圧され、ケレンスキー・クラスノフ軍も翌日の戦闘で敗れた。 モスクワでは10月25日に臨時労農政府を支持する軍事革命委員会が設立され、26日に臨時政府の側に立つ社会保安委員会がつくられた。10月27日に武力衝突が起こり、当初は社会保安委員会側が優勢だったが、周辺地域から軍事革命委員会側を支持する援軍が到着して形勢が逆転した。11月2日に社会保安委員会は屈服して和平協定に応じた。軍事革命委員会は11月3日にソヴィエト権力の樹立を宣言した。 ボリシェヴィキとともに武装蜂起に参加した社会革命党左派は、11月に党中央により除名処分を受け、左翼社会革命党として独立した。左翼社会革命党はボリシェヴィキからの入閣要請に応じ、12月9日に両者の連立政府が成立した。
※この「十月革命の勃発とソヴィエト権力の成立」の解説は、「ロシア革命」の解説の一部です。
「十月革命の勃発とソヴィエト権力の成立」を含む「ロシア革命」の記事については、「ロシア革命」の概要を参照ください。
- 十月革命の勃発とソヴィエト権力の成立のページへのリンク