挙人となるまでとは? わかりやすく解説

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挙人となるまで(1848年〜1877年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/17 15:38 UTC 版)

黄遵憲」の記事における「挙人となるまで(1848年1877年)」の解説

字は公度人境廬主人や観日道人、東海公、法時尚斎主人、蒼雁館主人といった号を持つ。広東省嘉応州(いまの梅州市)の人。生家南宋以来続く客家である。ただ客家といえど一族より代々挙人8人を出し、うち1人進士となっており、その地方では有力な一族だったといえる。父黄こうこうそう)も挙人ありながら地方官歴任し最終的に知府にまで上っている。 世界地誌『瀛環志略』(えいかんしりゃく)が刊行され中国人々の眼が漸く海外へ向けられつつあった1848年道光 28年)に黄遵憲は生を享けた。幼少より青年となるまでの期間は太平天国の乱起こっていた時期にほぼ重なっているために、多感な年頃黄遵憲本人多々影響与えている。たとえば黄遵憲18歳のとき氏を妻として迎えているが、その数日後太平天国軍が州城に押し寄せて避難余儀なくされ、留守となった実家大規模な質屋経営していたために狙われ莫大な損害受けている。その苦難のためか詩集人境詩草』(じんきょうろしそう)では、太平天国滅亡を喜ぶ「感懐」という詩が冒頭飾っている。彼が太平天国怒り覚えているのは当然であるが、注目すべきなのは効果的な対策打てない清朝官僚にも怒り矛先向けている点である。黄遵憲生涯抱き続け実用的でない科挙実務長けてない官僚への不信不満は、おそらくこの時のことが根本にある。そしてこの不信不満こそが彼の進路方向付け、そして改革へと駆り立てたのだと言えよう。幾度か試験失敗の後、29歳時に挙人となり、以後政治の表舞台へ登場する

※この「挙人となるまで(1848年〜1877年)」の解説は、「黄遵憲」の解説の一部です。
「挙人となるまで(1848年〜1877年)」を含む「黄遵憲」の記事については、「黄遵憲」の概要を参照ください。

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