フランソワ2世_(フランス王)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > フランソワ2世_(フランス王)の意味・解説 

フランソワ2世 (フランス王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/28 23:33 UTC 版)

フランソワ2世
François II
フランス国王
在位 1559年7月10日 - 1560年12月5日
戴冠式 1559年9月21日

スコットランド王配
在位 1558年4月24日 - 1560年12月5日

出生 (1544-01-19) 1544年1月19日
フランス王国フォンテーヌブロー宮殿
死去 (1560-12-05) 1560年12月5日(16歳没)
フランス王国オルレアン
埋葬 1560年12月23日
フランス王国サン=ドニ大聖堂
配偶者 メアリー・ステュアート
家名 ヴァロワ家
王朝 ヴァロワ朝
父親 アンリ2世
母親 カトリーヌ・ド・メディシス
テンプレートを表示

フランソワ2世François II de France, 1544年1月19日 - 1560年12月5日)は、ヴァロワ朝第11代フランス王(在位:1559年 - 1560年)。父はアンリ2世、母はカトリーヌ・ド・メディシスで、シャルル9世アンリ3世の兄である。スコットランド女王メアリー・ステュアートを王妃とした。

生涯

長い間子供に恵まれなかったカトリーヌが授かった最初の男子で、1545年父アンリが国王として即位すると王太子(ドーファン)となる。しかし、耳鼻咽喉科系の先天性の持病を持っており、始終耳から膿を吹き出し[1]、口も半開きにすることが多く、咽頭扁桃肥大症(アデノイド)の症状を表していたという。

1558年4月24日、フランソワはフランスで育てられていたスコットランド女王メアリー・ステュアートと結婚する[2]。1559年、アンリ2世が不慮の事故で死去すると、フランソワ2世として即位した。フランスの法では、15歳のフランソワ2世は成人とみなされ、摂政を必要としないが、フランソワは若く、政治の経験もなく、しかも持病があった。その結果、フランソワ2世は大臣たちに母カトリーヌから指示を受け取るよう命令した。しかし、カトリーヌは夫を失って深い悲しみに浸っており、指示を下せる状況になかった。カトリーヌが大臣たちに王妃の外戚であるギーズ公フランソワから指示を仰ぐよう伝えた結果、王妃たち一族が実権を握り、プロテスタントを弾圧した。カトリーヌ・ド・メディシスはこの措置に同意した。

1560年の年末も近い晩秋、フランソワ2世は狩猟に出かけた帰りに耳の後ろに鋭い痛みを訴えて倒れ、中耳炎と診断される[3]。侍医は開頭手術を提言したが母カトリーヌ・ド・メディシスはこれを拒絶、中耳炎は彼の脳葉にまで達し、脳炎を引き起こして死亡した[3]。16歳であった。王位はその後、弟シャルル9世アンリ3世が継承した後、男子が絶えてヴァロワ朝は断絶する。

脚注

  1. ^ 佐藤、p. 290
  2. ^ 佐藤、p. 292
  3. ^ a b 佐藤、p. 297

参考文献

  • 佐藤賢一 『ヴァロワ朝 フランス王朝史2』 講談社現代新書、2014年
先代
アンリ2世
フランス国王
1559年 - 1560年
次代
シャルル9世



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「フランソワ2世_(フランス王)」の関連用語

フランソワ2世_(フランス王)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



フランソワ2世_(フランス王)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのフランソワ2世 (フランス王) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS