断絶とブルターニュの王領併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/30 02:39 UTC 版)
「ドルー家」の記事における「断絶とブルターニュの王領併合」の解説
アルテュール3世没後は甥で弟リシャールの息子フランソワ2世が公位に就く。時のフランス王ルイ11世は中央集権化を目指してブルゴーニュ公国を始めとする諸侯・貴族を粛清し、国内統一の総仕上げとしてブルターニュに食指を動かしていた。フランソワ2世はルイ11世と対立して反乱を起こし、ルイ11世の息子シャルル8世とも対立して道化戦争(英語版)が発生した。だが、フランス軍は1488年のサン=トーバン=デュ=コルミエの戦い(英語版)でブルターニュ軍を破り、フランソワ2世は止む無く和睦を結んだ。息子の無いフランソワ2世はシャルル8世の許可なく娘を結婚させてはならない不利な条件を結ばされ、同年に失意のうちに没する。 公位を継いだ一人娘アンヌは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世との結婚で打開を図ろうとするも、シャルル8世との結婚を余儀なくされる。結果、ブルターニュはフランスに併合されるに至った。
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