著者と写本とは? わかりやすく解説

著者と写本

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/10/04 04:26 UTC 版)

フルダ年代記」の記事における「著者と写本」の解説

フルダ年代記ヘッセンフルダ修道院英語版)で編纂された。ある写本書かれ注記は、838年までの記載アインハルトによって記載されたものであることを証明しているとしていたが、これには未だ議論もあり、これは単なる写字生奥付過ぎず、それが写本転写の間に紛れ込んでしまったというもので、中世写字室では、稀ではない事故一種である、というものである。それはよいとして2つ目の注記は、864年までの記載フルダルドルフ英語版)に属する、より独立したグループ帰している。ルドルフ自身写本残っていないけれども、彼の写本別の史料言及され伝承痕跡残している。一部学者たちは、全体編纂870年代のひとりの無名編纂者によって最初に行なわれたと信じている。その作業864年まではMeinhard(英語版)によって行なわれていた、との説もあったが、このルドルフ後継者に関してはほとんど何も知られていないしかしながら863年以降は、3つ (Kurze)または2つ (Hellman)の写本グループルドルフ仕事を、それぞれ882年(または887年)と896年(または901年)まで引継ぎ重複した内容を持つ写本分岐始まった年代記は、その後2つ増補があるとされ、それらは、それぞれ"マインツ式"、"ババリアバイエルン)式"の形式持っているマインツ版は、マインツ大司教リウトベルト(英語版周辺との結びつき強く示しており、フランク人視点によって書かれ、彼が仕えた諸王とリウトベルトへの偏重示している。バイエルン人増補は、896年までは恐らくレーゲンスブルク行なわれそれ以降については ニーデラルタイヒ(英語版)で行なわれた。増補含めた新版待たれている。

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著者と写本

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/17 08:43 UTC 版)

サンベルタン年代記」の記事における「著者と写本」の解説

サンベルタン年代記初めに執筆したのはフランク王ルートヴィヒ1世宮廷書記官であると考えられている。840年代頃からは宮廷離れトロワ司教プルデンティウス英語版)によって執筆されるようになり(843年から861年まで)、プルデンティウス没後861年から882年まではランス大司教ヒンクマール英語版)によって執筆された。原本失われており、写本後代編集作業において細部変更され可能性がある。

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