著者と写本
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フルダ年代記はヘッセンのフルダ修道院(英語版)で編纂された。ある写本に書かれた注記は、838年までの記載はアインハルトによって記載されたものであることを証明しているとしていたが、これには未だ議論もあり、これは単なる写字生の奥付に過ぎず、それが写本の転写の間に紛れ込んでしまったというもので、中世の写字室では、稀ではない事故の一種である、というものである。それはよいとして、2つ目の注記は、864年までの記載をフルダのルドルフ(英語版)に属する、より独立したグループに帰している。ルドルフ自身の写本は残っていないけれども、彼の写本は別の史料で言及され、伝承に痕跡を残している。一部の学者たちは、全体の編纂は870年代のひとりの無名の編纂者によって最初に行なわれたと信じている。その作業は864年まではMeinhard(英語版)によって行なわれていた、との説もあったが、このルドルフの後継者に関してはほとんど何も知られていない。しかしながら、 863年以降は、3つ (Kurze)または2つ (Hellman)の写本グループがルドルフの仕事を、それぞれ882年(または887年)と896年(または901年)まで引継ぎ、重複した内容を持つ写本の分岐が始まった。年代記は、その後も2つの増補があるとされ、それらは、それぞれ"マインツ式"、"ババリア(バイエルン)式"の形式を持っている。マインツ版は、マインツ大司教リウトベルト(英語版)周辺との結びつきを強く示しており、フランク人の視点によって書かれ、彼が仕えた諸王とリウトベルトへの偏重を示している。バイエルン人の増補は、896年までは恐らくレーゲンスブルクで行なわれ、それ以降については ニーデラルタイヒ(英語版)で行なわれた。増補を含めた新版が待たれている。
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著者と写本
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サンベルタン年代記を初めに執筆したのはフランク王ルートヴィヒ1世の宮廷書記官であると考えられている。840年代頃からは宮廷を離れ、トロワ司教プルデンティウス(英語版)によって執筆されるようになり(843年から861年まで)、プルデンティウス没後の861年から882年まではランス大司教ヒンクマール(英語版)によって執筆された。原本は失われており、写本も後代の編集作業において細部が変更された可能性がある。
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