ルートヴィヒ2世 (テューリンゲン方伯)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > ルートヴィヒ2世 (テューリンゲン方伯)の意味・解説 

ルートヴィヒ2世 (テューリンゲン方伯)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/12 13:08 UTC 版)

ルートヴィヒ2世
Ludwig II.
テューリンゲン方伯
在位 1140年 - 1172年

出生 1128年
死去 1172年10月14日
神聖ローマ帝国
テューリンゲン方伯領、フライブルク、ノイエンブルク城
埋葬 神聖ローマ帝国
テューリンゲン方伯領、ラインハルツブルン修道院
配偶者 ユッタ・フォン・ホーエンシュタウフェン
家名 ルードヴィング家
父親 テューリンゲン方伯ルートヴィヒ1世
母親 ヘートヴィヒ・フォン・グーデンスベルク
テンプレートを表示
ルートヴィヒ2世のブラクテアート(金のメダル)(ワルシャワ国立美術館蔵)

ルートヴィヒ2世ドイツ語:Ludwig II., 1128年 - 1172年10月14日)は、テューリンゲン方伯(在位:1140年 - 1172年)。鉄伯(der Eiserne)と呼ばれた。

生涯

ルートヴィヒ2世は、1131年に初代テューリンゲン方伯となったルートヴィヒ1世とその妃ヘートヴィヒ・フォン・グーデンスベルクの息子として1128年に生まれた[1]。1140年に父ルートヴィヒ1世が亡くなると、ローマ王コンラート3世は12歳のルートヴィヒ2世にテューリンゲン方伯領を委ねた[2]。父ルートヴィヒ1世が1138年のコンラート3世の国王選挙を支持していたため、ルードヴィング家ホーエンシュタウフェン家の関係は良好であった。その関係は非常に良かったため、ルートヴィヒ2世はコンラート3世の1歳半の姪でコンラート3世の継承者フリードリヒ1世の異母妹ユッタとの結婚が取り決められた。コンラートが亡くなるまでルートヴィヒ2世は宮廷に留まり、マインツ大司教とメルゼブルク司教から教育を受けた。ルートヴィヒ2世は1150年にユッタと結婚し、その1年後に息子で継承者であるルートヴィヒ3世が誕生した。

ルートヴィヒ2世の治世中、テューリンゲンの民は貴族から頻繁にいじめや嫌がらせを受けていた。ルートヴィヒ2世はこれらの慣行に対し介入を始め、「鉄伯」というあだ名が付けられた。1421年にヨハネス・ローテが記した伝説によると、ルートヴィヒ2世は本名を隠して旅行していたある夜、ルーラの鍛冶屋に宿を求めた。鍛冶屋は鍛冶場で鉄を鍛えながら、民衆の窮状について不平を言い、貴族たちを罵り、領主が貴族らに対し寛大であることを嘆き、あたかも方伯自身であるかのように鉄に話しかけた。「Landgraf, werde hart!(方伯よ、しっかりしろ!)」と。これらの言葉がルートヴィヒ2世を駆り立て、強盗貴族に対し行動を起こすこととなった、という[3]。伝説によると、犯罪者たちは逮捕された後、鋤に繋がれ、畑を耕すことを強制されたという。

ルートヴィヒ2世はその治世において、1152年にローマ王となり1155年に皇帝に戴冠した義兄フリードリヒ1世バルバロッサと同盟を結んだ。2人はヴェルフ家ハインリヒ獅子公やマインツ大司教(エアフルトを統治していた)と対立し、共に戦った。

ヴァルトブルク城はルートヴィヒ2世の治世中にさらに拡張され、宮殿は現在の形に建設された。放射性炭素年代測定により、屋根の梁に使われた樫の木が1157年に伐採されたことがわかっている。1168年にヴァイセンゼーにルンネブルク城を建設した。

1172年、皇帝フリードリヒ1世とルートヴィヒ2世はポーランドへの遠征を開始した。ルートヴィヒ2世は帰還後に病気になり、1172年10月14日に死去した[2]。他のテューリンゲン方伯と同様に、ラインハルツブルン修道院に埋葬された[2]。修道院が取り壊されたとき、一族の墓石はアイゼナハの聖ゲオルク教会に移された。

結婚と子女

1140年にシュヴァーベン大公フリードリヒ2世の娘で皇帝フリードリヒ1世の異母妹ユッタと結婚した[4]。2人の間には以下の子女が生まれた[1]

脚注

  1. ^ a b Lyon 2013, p. 243.
  2. ^ a b c Walter Heinemeyer: Ludwig II. der Eiserne, Landgraf von Thüringen. In: Neue Deutsche Biographie (NDB). Band 15, Duncker & Humblot, Berlin 1987, ISBN 3-428-00196-6, S. 420 (電子テキスト版).
  3. ^ Knochenhauer 1871, p. 178.
  4. ^ Loud & Schenk 2017, p. xxvii.

参考文献

先代
ルートヴィヒ1世
テューリンゲン方伯
1140年 - 1172年
次代
ルートヴィヒ3世



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  ルートヴィヒ2世 (テューリンゲン方伯)のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ルートヴィヒ2世 (テューリンゲン方伯)」の関連用語

ルートヴィヒ2世 (テューリンゲン方伯)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ルートヴィヒ2世 (テューリンゲン方伯)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのルートヴィヒ2世 (テューリンゲン方伯) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS