領土紛争の種
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/17 20:08 UTC 版)
フランク人とザクセン人との境界領域、後にはテューリンゲン方伯領内にあるマインツ大司教領の飛び地であり、さらに後にはヘッセン領となる位置にあるこの街は繰り返し戦闘行為の原因、起点、現場となってきた。それはザクセン人とフランク人との争い、聖界と世俗との争い、カトリック領主とプロテスタント領主との争いであった。街は繰り返し包囲され、何度も占領され、焼き払われ、そして何度も再建された。 最初の破壊は、カール大帝によるザクセン戦争の際、774年に起こった。カールがイタリアにいた時、ザクセン人が北ヘッセンに侵攻し、フリッツラーの住民が防衛を試みたビューラブルク城を包囲した。彼らは城を攻略することはできなかったものの、街を略奪し、焼き払った。ヴィクベルトの石造バシリカだけが無傷で残った。このため、2人の天使が現れ、敵を追い払ったという伝説が後に生まれた。街はすぐに再建された。786年にはすでに教会会議が開催され、そこで第3代のマインツ大司教が選出された。フリッツラーの修道院長はこれ以後1051年までマインツの補佐司教の地位を占めることとなった。 1066年から1079年までに皇帝ハインリヒ4世が寄進を行ったことにより、修道院、アムト(行政機能)、宮廷、フリッツラー市は王領からマインツ大司教領となり、それまでニーダーヘッセン地方の首邑であったフリッツラー市は帝国行政の街としての重要性を極めて急速に失った。マインツへの所属は1803年の帝国代表者会議主要決議によって終了した。銀地に2つの赤いマインツの輪を描いた市の紋章は、この数世紀に及ぶマインツ大司教領への所属を表している。 しかしそれ以前、ハインリヒ4世とローマや教皇が支持する対立王ルドルフ・フォン・ラインフェルデンとの争いはフリッツラーにとって良くない結果をもたらした。フリッツラーの城館にしばしば滞在したハインリヒは1078年から1079年の冬にもフリッツラーに滞在した。その結果、ルドルフを支持するザクセンの領主は1079年の夏にこの街を襲撃した。ハインリヒは逃走に成功したが、街は征服され、完全に荒廃した。マインツ大司教ヴェツィーロによれば、1085年にもまだこの街は再建が始まっておらず、事実上荒廃したままであった。 その後何世紀もフリッツラーは、ナウムブルク、ホーフガイスマー、アメーネブルクと並んで、北ヘッセンにおけるマインツ大司教の領土経営の支柱であり、この街はテューリンゲン方伯および後にはヘッセン方伯対マインツ大司教の軍事的対立の焦点に繰り返しなった。ハインリヒ・ラスペの弟で、テューリンゲン方伯領のヘッセン部分をヘッセン伯(グーデンスベルク)として運営していたコンラート・フォン・テューリンゲンは、3か月に及ぶ包囲の末、1232年9月15日にフリッツラーを占領した。街は完全に略奪され、焼き払われ、住民の多くは殺された。コンラートが退却しようとした時、数人の「淫らな女性」が市壁から下に向かってひどく卑猥なジェスチャーで侮辱した 。彼はこれに立腹し、新たな突撃を敢行し、街を破滅させたのだと、古い年代記は記している。これによりコンラートは教皇から破門を宣告され、謝罪のためにローマに出向き、1234年にドイツ騎士団に入団した。1238年6月29日にフリッツラーに戻り、教会で悔悟の礼拝を行い、私財や贖宥状で得た金銭を教区教会を再建する資金に充てた。この街はすぐに再興に着手し、防衛施設を強化し、これに伴い、市壁は東側に突き出される形となった。広場の周りには新しいフランシスコ会修道院やドイツ騎士団の施設が設けられ、一連の市壁の塔が追加され、街の周囲の戦略上重要な地点には7つの監視塔が建てられた。マインツ大司教ジークフリート3世が教会会議を開催した1244年5月30日にはすでに教会は完全に修復されていた。 その後、1280年春にヘッセン方伯ハインリヒ1世がフリッツラー近郊で、マインツ大司教ヴェルナー・フォン・エップシュタインの軍とツィーゲンハイン伯ゴットフリート4世およびバッテンベルク伯の軍の連合軍に対して壊滅的打撃を与え、この街は新たに甚大な被害に耐えなければならなくなった。ハインリヒは、聖エリーザベトの孫にあたり、1247年にマーダー・ハイデで方伯となり、これ以後ヘッセン方伯を称していた。彼は北ヘッセンの領土内のマインツ大司教の存在を克服せねばならなかった。マインツ大司教は、ハインリヒ・ラスペの死に伴いヘッセン北部の統治権を要求していたのである。ここは1120年頃からマインツのレーエンであるとして、マインツへの帰属確認を要求したのであった。 大司教は商人を移住させ、この街はヘッセン最初の貨幣鋳造所となり、カッセル近郊の織物、毛皮、スパイスの取引所となった。最初の市壁は1184年から1196年に建設された。1280年にいわゆるノイシュタット(新市街)の建設が始まった。この街は独自の市壁で囲まれており、16世紀になるまで法的に独立した街であった。街の水道は木製の配水管のシステムによりエーダー川、詳しくはその分流である水車用水路から、マルクト広場や聖堂広場の泉や貯水タンクに給水されていた。 皇帝ルートヴィヒ4世に味方したマインツ大司教ハインリヒ3世・フォン・フィルネブルクが、カール4世をローマ王に選出した教皇クレメンス6世によって1346年4月に大司教を罷免され、ゲルラハ・フォン・ナッサウがその地位に就いた。ハインリヒ・フォン・フィルネブルクはこの教皇の決定を無視し、亡くなる1353年までゲルラハと大司教位を争った。ヘッセン方伯ハインリヒ2世はゲルラハを支持した。このマインツ大司教のシスマで、1347年5月にフリッツラーとグーデンスベルクとの間の平野はまたもやマインツとヘッセンとの戦いの場となった。この戦いでヘッセン方伯ハインリヒ2世はハインリヒ・フォン・フィルネブルクを決定的に打ち破った。ハインリヒ・フォン・フィルネブルクの死後、この戦いの功績とヘッセン伯となした誓いとによって、ゲルラハはニーダーヘッセンおよびオーバーヘッセンの方伯による領有をレーエンとして認めざるを得なかった。ただし、フリッツラー、アメーネブルクおよびナウムブルクだけは所有財産として保持された。 15世紀、1427年7月23日にフリッツラー近郊および同年8月10日にフルダ近郊で方伯ルートヴィヒ1世が大司教コンラート3世・フォン・ダーウンに勝利した戦いと、16世紀になされた宗教改革による、ヘッセン方伯に対する大司教の決定的敗北は、フリッツラーの重要性の低下をもたらし、カッセルがこれを凌駕した。1438年にはすでに聖ペーター教会は方伯の庇護下にあった。その1年後には、彼はヘッセンにおけるマインツの全財産のパトロンとなった。アウクスブルクの宗教和議以降、周囲がプロテスタントに転向したにもかかわらず、フリッツラーは隣村のウンゲダンケンとロートハイムハウゼンとともにマインツ大司教領のカトリックにとどまった。これは宗教上完全な、そして経済的に広範な孤立をこの街にもたらした。 1461年から1463年までのマインツ教会フェーデの間と、1468年から1469年までのヘッセン兄弟戦争の間との2回、この街はヘッセン領となるところであった。どちらの場合も、マインツ大司教アドルフ2世・フォン・ナッサウがヘッセン=マールブルク方伯ハインリヒ3世にこの街を質入れしようとしたのだが、未然に防がれた。いずれも質入れの証文はすでに作成され、方伯と市の双方に交付されたのだが、市議会はその受け入れを拒絶した。市当局は巧みな政治手腕を発揮した。一度は、不仲の兄弟であるヘッセン=カッセル方伯ルートヴィヒ2世とヘッセン=マールブルク方伯ハインリヒ3世とを争わせ、もう一度はマインツの聖堂参事会に大司教の計画に対する調停を申し入れて成功した。フリッツラーはさらに防衛施設を強化し、武器を調達した。これにより、方伯ルートヴィヒに対して同じように抵抗したが軍事的に敗れ、占領されてしまったホーフガイスマーの轍を踏むことを回避できた。
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