正統カリフ勢力の勃興とイラク侵攻
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「カーディシーヤの戦い」の記事における「正統カリフ勢力の勃興とイラク侵攻」の解説
預言者ムハンマドの死後、アブー・バクルはリッダ戦争(英語版)を通じてアラビア半島に支配権を打ち立て、シリアやパレスチナのアラブ人に対して軍事行動を起こした。アブー・バクルはわずか数十年で史上最大規模の帝国を築き上げる基礎を築くが、一方でこれらの地域を巡り東ローマ帝国、サーサーン朝との間に1世紀にわたる領土紛争の種を播くことになった。アブー・バクル配下の勇将ハーリド・イブン・アル=ワリードに率いられたアラブ軍はイラクに侵攻すると立て続けにサーサーン朝軍を破り、633年5月に古代イラクの首府であるアル・ヒラを陥落させると、2カ月の間にユーフラテス川流域の諸都市を落とし、サーサーン朝軍の反撃を跳ね返した。冬には東ローマ帝国との国境沿いの都市フィラーズにまで到達し、フィラーズの戦い(英語版)でサーサーン朝、東ローマ帝国、キリスト教徒アラブ人の連合軍を破り、ハーリドはクテシフォンを除く全イラクを掌握した。 ムスリム軍がイラクを制圧すると東ローマ軍がシリアとパレスチナに攻め込んだため、ハーリドは麾下の軍の半分を率いてイラクから転戦した。直後の634年にカリフのアブ-・バクルが没し、ウマルが第2代正統カリフとなった。ハーリド軍の侵攻後、サーサーン朝の首都クテシフォンは混乱の極みにあったが、サーサーン朝軍はひとたび態勢を立て直すと、軍勢を集中して反撃を開始した。ムスリム軍はイラクを維持するには寡兵だったため撤退してアル・ヒラも放棄し、アラビア砂漠近くまで退いた。ムスリム軍は一度はメディナからの増援でサーサーン朝軍をクーファ近郊で破るが、サーサーン朝軍の反撃でユーフラテス河畔で大敗を喫し、多大な損害を被って撤退した。
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