マインツ大司教とは? わかりやすく解説

マインツ大司教

(マインツ大司教領 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/29 16:22 UTC 版)

マインツ選帝侯領
Kurfürstentum Mainz
780年頃 - 1803年



(国旗) (国章)
首都 マインツ
大司教・選帝侯
1774年 - 1802年 カール・テオドール・フォン・ダールベルク
変遷
大司教座へ昇格、領土獲得 780年782年
マインツ帝国自由都市 1242年1462年
ドイツ大法官 1251年
マインツ共和国 1793年3月18日-7月23日
帝国代表者会議主要決議 1803年2月25日

マインツ大司教ドイツ語: Erzbischof von Mainz)、またはマインツ選帝侯ドイツ語: Kurfürst von Mainz または Mainzer Kurfürst)は、780/82年から1802年まで神聖ローマ帝国にあった、大きな力を持った司教領主(ドイツ語: Fürstbischof)である。

カトリック教会のヒエラルキーではマインツ大司教はドイツにおける最高位の聖職者primas Germaniae)であり、アルプス以北でのローマ教皇の代理人であった。マインツ大司教座は司教座の中でも、ローマ大司教座を除いて唯一、「聖」を付して「マインツ聖座」(Sancta Sedes Moguntina)と呼ばれていたが[1]、現在ではこのような呼び方はあまり一般的ではなくなってきている。

マインツ大司教区は神聖ローマ帝国に相当の領地を持っていた。その範囲はマインツ近郊のライン川両岸地帯、フランクフルトの上流までのマイン川一帯(アシャッフェンブルク含む)、ニーダーザクセン州テューリンゲン州にまたがるアイヒスフェルトEichsfeld)地方、テューリンゲン州エアフルト周辺に及んでいた。マインツ大司教はまた選帝侯の1人であり、ドイツ大書記官長であり、実質的には1251年から、そして1263年から1803年の間は一貫して、皇帝選挙の投票場管理官でもあった。

歴史

マインツ大聖堂内にある大司教ペーター・フォン・アスペルト(在任:1306年 - 1320年)の墓碑。儀礼用の衣装であり、カズラの上にパリウムをつけている。足下の人物は彼が戴冠した3人の王(ボヘミア王ヨハンハインリヒ7世ルートヴィヒ4世)である。

マインツは「モグンツィアクム」 と呼ばれたローマ属州の都市であり、ローマ帝国時代に司教座が置かれた。4世紀以前の初期の司教については伝説の域を出ないものであるが、最初の司教はクレスケンスと言われている。史実として確認できる最初のマインツ司教は、343年のマルティヌスである。

747年に聖ボニファティウスが着任してから重要性が高まる。ボニファティウスはマインツに来る前に大司教を務めていたが、マインツが大司教座に昇格するのは、次の司教ルルスの時代、780年から782年ごろであった。

1802年、マインツは大司教座の地位を失い、翌年の帝国代表者会議主要決議によって、選帝侯の地位はカール・テオドール・フォン・ダールベルクとともにレーゲンスブルク大司教へと移った。ライン川左岸はフランス第一共和政の領地となり、フランクルト下流のマイン川右岸はヘッセン=ダルムシュタット方伯ナッサウ公国に、アイヒスフェルトとエアフルトはプロイセン王国に渡った。アシャッフェンブルク一帯はダールベルクの所領に留まり、アシャッフェンブルク公国を形成した。1810年のフランクフルト大公国成立により、アシャッフェンブルクはフランクフルトヴェッツラーハーナウフルダと共にフランクフルト大公国に編入された。1813年、ダールベルクは大司教を除く全ての職を辞し、1815年、ウィーン会議によりダールベルクの領地はバイエルン王国ヘッセン選帝侯国ヘッセン大公国およびフランクフルト自由都市の間で分割された。

現在のマインツ司教座英語版ドイツ語: Bistum Mainz)は1802年にフランス帝国領に置かれ、1814年には支配域をヘッセン=ダルムシュタットまで拡大した。以来、2人の枢機卿を擁し、さまざまなコンコルダートによって後任司教を選ぶ参事会の中世以来の伝統を維持している。

一覧

マインツ大司教(745年 – 1198年)

年は在位年を示す。

  • 848年 – 856年:ラバヌス・マウルス・マグネンティウス
  • 856年 – 863年:カール - アクィタニア王ピピン1世の子
  • 891年 – 913年: - アレマニアの貴族の出、ライヒェナウ修道院長[2]
  • 913年 – 927年: - 東フランク王ハインリヒ1世は即位時ヘリガーによる塗油を拒絶
  • 937年 – 954年:フリードリヒ - シュヴァーベン大公リウドルフに与し、皇帝オットー1世に対する反乱に参加。
  • 954年 – 968年:ヴィルヘルム - 皇帝オットー1世庶子
  • 1051年 – 1059年:リウトポルト・フォン・バーベンベルク - オーストリア辺境伯レオポルト1世子
  • 1111年 – 1137年:アダルベルト1世
  • (対立司教)1160年 - 1161年:ルドルフ・フォン・ツェーリンゲン - ツェーリンゲン公コンラート1世子
  • 1161年 – 1165年:コンラート・フォン・ヴィッテルスバッハ英語版 - バイエルン公オットー1世
  • 1165年 – 1183年:クリスティアン1世・フォン・ブフ英語版
  • 1183年 – 1200年:コンラート・フォン・ヴィッテルスバッハ英語版

マインツ選帝侯(1198年 – 1803年)

年は在位年を示す。

  • 1183年 – 1200年:コンラート・フォン・ヴィッテルスバッハ英語版
  • 1200年 – 1208年:レオポルト2世・フォン・シェーンフェルトドイツ語版
    • (対立司教)1200年 – 1208年:ジークフリート2世・フォン・エップシュタイン英語版
  • 1208年 – 1230年:ジークフリート2世・フォン・エップシュタイン英語版
  • 1230年 – 1249年:ジークフリート3世・フォン・エップシュタイン英語版 - ハインリヒ・ラスペおよびホラント伯ヴィルヘルムを対立王に推す - 聖エリーザベトの列聖のために力を尽くす - 在位中に大聖堂の献堂式が催される[3]
  • 1249年 – 1251年:クリスティアン2世・フォン・ヴァイゼナウドイツ語版
  • 1251年 – 1259年:ゲルハルト1世・フォン・ダウンドイツ語版
  • 1260年 – 1284年:ヴェルナー・フォン・エップシュタインドイツ語版 - ルドルフ1世をローマ王に推薦
  • 1286年 – 1288年:ハインリヒ・フォン・イスニードイツ語版
  • 1288年 – 1305年:ゲルハルト2世・フォン・エップシュタインドイツ語版
  • 1306年 – 1320年:ペーター・フォン・アスペルト英語版 - ルートヴィヒ4世のローマ王選出を支持 - 詩人 フラウエンロープ晩年のパトロン
  • 1321年 – 1328年:マティアス・フォン・ブーヒェッグドイツ語版 - ローゼンタールを建設
  • 1328年 – 1353年:ハインリヒ3世・フォン・フィルネブルクドイツ語版
  • 1346年 – 1371年:ゲルラッハ・フォン・ナッサウドイツ語版 - ナッサウ伯ゲルラッハ1世英語版
  • 1371年 – 1373年:ジャン・ド・リュクサンブール
  • 1373年 – 1381年:ルートヴィヒ・フォン・マイセン英語版 - マイセン辺境伯フリードリヒ2世
  • 1381年 – 1390年:アドルフ1世・フォン・ナッサウ英語版 - ナッサウ=ヴィースバーデン=イトシュタイン伯アドルフ1世英語版
  • 1390年 – 1396年:コンラート2世・フォン・ヴァインスベルクドイツ語版
  • 1396年 – 1397年:ゴットフリート・フォン・ライニンゲンドイツ語版
  • 1397年 – 1419年:ヨハン2世・フォン・ナッサウドイツ語版 - ナッサウ=ヴィースバーデン=イトシュタイン伯アドルフ1世子
  • 1419年 – 1434年:コンラート・フォン・ダウン英語版
  • 1434年 – 1459年:ディートリヒ・シェンク・フォン・エルバッハ英語版
  • 1459年 – 1461年:ディーター・フォン・イーゼンブルク英語版
  • 1461年 – 1475年:アドルフ2世・フォン・ナッサウ英語版 - ナッサウ=ヴィースバーデン=イトシュタイン伯アドルフ2世英語版
  • 1475年 – 1482年:ディーター・フォン・イーゼンブルク英語版
  • Administratorで正式には大司教ではなかった)1482年 – 1484年:アダルベルト・フォン・ザクセン英語版 - ザクセン選帝侯エルンスト
  • 1484年 – 1504年:ベルトルト・フォン・ヘンネブルク英語版 - 主要諸侯を中央の政治決定に継続的に参加させ。公共の秩序を確立することを目指す「帝国改造」をリード[4]
  • 1504年 – 1508年:ヤーコプ・フォン・リーベンシュタイン英語版
  • 1508年 – 1514年:ウリエル・フォン・ゲミンゲン英語版 - アシャッフェンブルク城の工事のために、マティアス・グリューネヴァルトを宮廷画家として雇用
  • 1514年 – 1545年:アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク英語版 - ブランデンブルク選帝侯ヨハン・ツィーツェロ子 - 一時期マティアス・グリューネヴァルトが彼に仕えた。
  • 1545年 – 1555年:ゼバスティアン・フォン・ホイゼンシュタム英語版
  • 1555年 – 1582年:ダニエル・ブレンデル・フォン・ホンブルク英語版
  • 1582年 – 1601年:ヴォルフガング・フォン・ダルベルク英語版 - ヘッセン=カッセル方伯ヴィルヘルム4世メルラウ条約ドイツ語版を結び、選帝侯領とヘッセン=カッセルの国境問題を解決した。
  • 1601年 – 1604年:ヨハン・アダム・フォン・ビッケン英語版
  • 1604年 – 1626年:ヨハン・シュヴァイクハルト・フォン・クロンベルク英語版
  • 1626年 – 1629年:ゲオルク・フリードリヒ・フォン・グライフェンクラウ英語版
  • 1629年 – 1647年:アンゼルム・カジミール・ヴァンボルト・ウンシュタット英語版
  • 1647年 – 1673年:ヨハン・フィリップ・フォン・シェーンボルン英語版
  • 1673年 – 1675年:ロタール・フリードリヒ・フォン・メッテルニヒ=ブルシャイト英語版
  • 1675年 – 1678年:ダミアン・ハルタルト・フォン・デア・ライエン英語版
  • 1679年:カール・ハインリヒ・フォン・メッテルニヒ=ヴィンネブルク英語版
  • 1679年 – 1695年:アンゼルム・フランツ・フォン・インゲルハイム英語版
  • 1695年 – 1729年:ロタール・フランツ・フォン・シェーンボルン英語版
  • 1729年 – 1732年:フランツ・ルートヴィヒ・フォン・デア・プファルツ
  • 1732年 – 1743年:フィリップ・カール・フォン・エルツ=ケンペニヒ英語版
  • 1743年 – 1763年:ヨハン・フリードリヒ・カール・フォン・オスタイン英語版
  • 1763年 – 1774年:エメリッヒ・ヨーゼフ・フォン・ブライトバッハ・ツー・ビュレスハイム英語版
  • 1774年 – 1802年:フリードリヒ・カール・ヨーゼフ・フォン・エルタール英語版ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは1790年10月に選帝侯の邸宅で演奏をしている[5]
  • 1802年 – 1803年:カール・テオドール・フォン・ダールベルク

脚注

  1. ^ Die Diözesen in Deutschland Und wo kommen Sie her? - Liborius (ドイツ語)
  2. ^ 成瀬 治 ほか 編 『世界歴史大系 ドイツ史 1』 山川出版社、1997年、95頁。
  3. ^ マインツ大聖堂最古の墓碑は、2人の王に加冠するジークフリート3世の像である。Alexander Freiherr von Reitzenstein: Deutsche Plastik der Früh- und Hochgotik. Karl Robert Langewiesche Nachfolger Hans Köster, Königstein im Taunus, Germany, 1962. S. 37. - Lexikon des Mittelalters. Bd. VII. München: LexMA 1995 (ISBN 3-7608-8907-7), Sp. 1867 (Beitrag von A. Gerlich).
  4. ^ ピーター H. ウィルスン 著、山本文彦 訳『ヨーロッパ史入門 神聖ローマ帝国 1495-1806』岩波書店 2005年 (ISBN 4-00-027097-4) 、35頁。
  5. ^ 柴田治三郎編訳『モーツァルトの手紙(下)』岩波文庫 1980年 (ISBN 4-00-335042-1) 183頁。

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