ホーエンツォレルン家のアルブレヒト
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「レオ10世による贖宥状」の記事における「ホーエンツォレルン家のアルブレヒト」の解説
この位に就いたのが、ホーエンツォレルン家の次男アルブレヒト(ドイツ語版、英語版)(1490-1545)である。アルブレヒトはブランデンブルク選帝侯ヨアヒム1世(1484-1535)の実の弟で、はじめのうちは兄と共同でブランデンブルク辺境伯領を治めていた。1513年にマクデブルク大司教とハルバーシュタット司教を兼任していたザクセンのエルンスト2世(ドイツ語版、英語版)が死ぬと、アルブレヒトはその後継者として叙任された。と言ってもアルブレヒトは神学者でもなんでもなく、ホーエンツォレルン家が金と政治力で手に入れた職位だった。大司教位は本当は30歳以上でなければ認められないのに、このときアルブレヒトはまだ23歳だった。 翌1514年にマインツ大司教ウリエル(ドイツ語版、英語版)が死ぬと、ホーエンツォレルン家はマインツ大司教位獲得に乗り出した。その結果アルブレヒトが、マインツ大司教、マクデブルク大司教、ハルバーシュタット司教を兼任することになった。本来、教会法では高位聖職者の兼任は禁止だし、年齢制限も満たしていない。が、然るべき金額を支払うならば、教皇レオ10世はそれを許可したのだった。 しかし問題はその金額の高さだった。もともと司教や大司教は、任命された1年目の収入を「初収入税」としてローマ教皇に上納する義務があった。ローマ教皇レオ10世は、アルブレヒトが複数の聖職位、それもドイツ最高のマインツ大司教位を含めた3つの職位を兼任することを「特別に」許可する代償として、法外な選任保証料を納めるよう要求した。その額は、マインツ大司教位に対して金貨12,300枚、マグデブルク大司教位に対して金貨1,079枚だったとされている。これは「大国の高級官僚の年収50年分」とか「神聖ローマ帝国の歳入に匹敵」するほどの額だったとも言われている。しかしまだ若いアルブレヒトはそのような資産は持っていなかったし、所領のマインツからその費用を徴収するのも無理だった。というのも、マインツ大司教はここのところ数代にわたって短命な者が続いていて頻繁に変わっており、その都度ローマへ初収入税を納めていたので、もはやさらなる支払いを捻出できるような状態では無かった。 そこでアルブレヒトはこれを賄うためフッガー家から借金をすることになった。
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