ローマ教皇レオ10世
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「レオ10世による贖宥状」の記事における「ローマ教皇レオ10世」の解説
レオ10世(ラファエロ作・1518年頃) レオ10世が発行した贖宥状は壮麗なサン・ピエトロ大聖堂の建築費に充てるという名目で売りに出された。 この時代、教皇庁は財政的な豊かさを背景に力を伸ばした。ローマ教皇は単なる教会の長、隠遁聖職者の長老ではなく、大国の領主というべき力を持っていた。その政治力と軍事力を誇ったのがユリウス2世(在位1503-1513年)だった。ユリウス2世はイタリアのルネサンスの強力な支援者でもあり、ミケランジェロを保護し、文芸にも力を注いだ。 そのユリウス2世の後継者がレオ10世(在位1513-1521年)である。レオ10世はフィレンツェの富豪、メディチ家の次男である。その資金力を背景に13歳で枢機卿になり、ユリウス2世のあとを継いで1513年に教皇位についたときはまだ38歳だった。 レオは教皇位に就任するにあたり、「現世の享楽を謳歌する」と宣言してみせたほどの放蕩家だった。そこらの王侯よりも贅沢を好み、湯水のように金を使い、宴会、狩猟、戦争、賭博に明け暮れ、芸術の庇護者として振る舞った。その結果、就任から2年で法王庁の財政が危機に陥ったとも言われている。 レオ10世は金策のためユリウス2世のやり方を真似した。レオ10世が売った聖職位は1年に2,000件にも及び、その売却額はドゥカーテン金貨50万枚にもなったといわれている。レオ10世がユリウス2世から引き継いだ大事業が聖ピエトロ大聖堂の再建である。これは100年以上の構想の末に1506年に着工したものだった。レオ10世はこの工事の設計にラファエロを任命し、大聖堂をさらに大きく、豪壮なものへと設計変更を行わせた。 資金の流れの観点で言うと、この建築費用を用立てたのはフッガー家である。この時代のフッガー家は、ドイツでの鉱山経営の飛躍的拡大によって、レオ10世の出自であるメディチ家を凌駕する経済力を有していた。だからレオ10世もフッガー家に借金を申し込んだのである。聖ピエトロ大聖堂はこの融資によって建設された。しかしレオ10世にはこの借金と利息の返済のあてはなかった。そこでレオ10世は贖宥状を売り、その収益を返済に充てることにした。 当時ドイツの庶民のなかには、「なぜ教皇さまはあれほどお金持ちなのに、自分のお金で大聖堂を建てないのだろう」と言うものもいたという。
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