ローマ教皇レオ10世とは? わかりやすく解説

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ローマ教皇レオ10世

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 05:27 UTC 版)

レオ10世による贖宥状」の記事における「ローマ教皇レオ10世」の解説

レオ10世ラファエロ作・1518年頃) レオ10世発行した贖宥状壮麗なサン・ピエトロ大聖堂建築費に充てるという名目売り出された。 この時代教皇庁財政的な豊かさ背景に力を伸ばしたローマ教皇単なる教会の長、隠遁聖職者長老ではなく大国領主というべき力を持っていた。その政治力軍事力誇ったのがユリウス2世在位1503-1513年)だった。ユリウス2世イタリアルネサンス強力な支援者でもあり、ミケランジェロ保護し文芸にも力を注いだ。 そのユリウス2世後継者レオ10世在位1513-1521年)である。レオ10世フィレンツェ富豪メディチ家次男である。その資金力背景13歳枢機卿になり、ユリウス2世のあとを継いで1513年教皇についたときはまだ38歳だった。 レオ教皇位に就任するにあたり、「現世享楽謳歌する」と宣言してみせたほどの放蕩家だった。そこらの王侯よりも贅沢を好み湯水のように金を使い宴会狩猟戦争賭博明け暮れ芸術庇護者として振る舞ったその結果就任から2年法王庁財政危機陥ったとも言われている。 レオ10世金策のためユリウス2世やり方真似した。レオ10世売った聖職位は1年に2,000件にも及び、その売却額はドゥカーテン金貨50万枚にもなったといわれている。レオ10世ユリウス2世から引き継いだ事業聖ピエトロ大聖堂再建である。これは100年上の構想の末に1506年着工したのだったレオ10世はこの工事設計ラファエロ任命し大聖堂をさらに大きく豪壮なものへと設計変更を行わせた。 資金流れ観点で言うと、この建築費用用立てたのはフッガー家である。この時代フッガー家は、ドイツでの鉱山経営飛躍的拡大によって、レオ10世出自であるメディチ家凌駕する経済力有していた。だからレオ10世フッガー家借金申し込んだのである聖ピエトロ大聖堂はこの融資によって建設された。しかしレオ10世にはこの借金利息返済のあてはなかった。そこでレオ10世贖宥状売り、その収益返済充てることにした。 当時ドイツ庶民なかには、「なぜ教皇さまはあれほどお金持ちなのに、自分お金大聖堂建てないのだろう」と言うものもいたという。

※この「ローマ教皇レオ10世」の解説は、「レオ10世による贖宥状」の解説の一部です。
「ローマ教皇レオ10世」を含む「レオ10世による贖宥状」の記事については、「レオ10世による贖宥状」の概要を参照ください。

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