テオドラ・アンゲリナとは? わかりやすく解説

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テオドラ・アンゲリナ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/07 02:38 UTC 版)

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テオドラ・アンゲリナ
Theodora Angelina
ブルガリア皇后
オーストリア公妃

出生 1180/85年
東ローマ帝国コンスタンティノープル
死去 1246年6月22日/23日
神聖ローマ帝国
オーストリア公国カーレンベルク英語版
配偶者 ワラキア=ブルガリア帝国皇帝イヴァンコ
  ドブロミル
  オーストリア公レオポルト6世
子女 マルガレーテ
アグネス
レオポルト
ハインリヒ
ゲルトルート
フリードリヒ2世
コンスタンツェ
父親 イサキオス・コムネノス
母親 アンナ・アンゲリナ
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テオドラ・アンゲリナのシール

テオドラ・アンゲリナ(Theodora Angelina, 生没年不詳)は、バーベンベルク家オーストリア公レオポルト6世の妻。イサキオス・コムネノス(東ローマ帝国マヌエル1世コムネノスの甥の子)と皇女アンナ・アンゲリナ(皇帝アレクシオス3世アンゲロスの子)の唯一の子。

生涯

1197年ワラキア=ブルガリア帝国第2代皇帝イヴァンコ(イヴァン・アセン1世を殺して即位)と結婚。東ローマ帝国に恭順の意を表明し、アレクシオスの名まで賜っていたイヴァンコは1198年にすぐさま反旗を翻し、父イサキオスは、夫の属するワラキア=ブルガリアの捕虜となって死んだ。将軍マヌエル・ヴァタツェスは彼を捕らえ、テオドラは夫と離婚した。

1200年頃、彼女はワラキア=ブルガリアの指導者であるドブロミル(将軍マヌエルの義理の息子)の3人目の妻となっていた。

後に第4回十字軍のもたらした東ローマ帝国の崩壊のさなか、テオドラはレオポルト6世と結婚した。2人には7子が生まれた。

脚注

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参考文献

関連項目




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